戦後すぐ、松下幸之助の経営していた松下電器は財閥解体指定の適用を受けた。自分自身も追放という満身創痍の状態から見事に経営を立て直し、経営の神様といわれるようになった。その苦難の道程を回想したのは、会長に退いた直後のことだ。
出典:文藝春秋 1965年4月号「わが日本一の借金王時代」
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私はよく人から「あなたは今までにずいぶん苦労なさったと思うが、なかでも一番苦労されたのはどういう時ですか」という質問を受けることがある。
これに対しては、私はいつも次のように答えることにしている。「苦労したという実感は別にそうありませんナ。本来、働くことが好きだったからでしょうか。しかし強いて言うならば、戦後の数年間はいささか苦労したと言えるでしょうか」
これには別にウソ偽りはない。働くことは私にとってはむしろ喜びであった。もちろん難儀な思いをしたことは何度となくある。しかし働きさえすれば、これらの難儀はある程度のり越えられるのである。
真実、苦労というのは、働こうにも思うように働けないという状態におかれた時に起ってくる。私としてこれほど辛いことはない。その最たるものが、戦後数年間の苦難であった。
生産ストップ令でる
昭和20年、そのころ戦争はもはや末期的症状を呈していたが、太平洋戦争開始以来すでに3年8カ月、何と言っても国民の総力をあげて戦い抜いてきたこの戦争である。何とかそこに光明を見出せないものかという思いは、当時の国民が誰しも持っていたねがいであったろう。
そうしたさなかの8月15日である。私以下会社の幹部一同は講堂に集まっていた。正12時、ラジオから流れる陛下のお声は聞きとりにくかったが、しかし仰せられることの意味はよくわかった。戦いは敗戦に終ったのだ。これは、やや予期していたことではあったが、さてとなるとやはり言い知れぬ悲しみであった。私も幹部の人びとも、みな眼頭を赤くした。
その夜、私は輾転(てんてん)として眠れなかった。この思わぬ事態を前にして、われ何をなすべきかを、真剣に思いあぐんだのである。考えは容易にまとまらなかった。しかし、これだけはハッキリしていた。今から直ちに日本は再建に入る、一刻の猶予もならない、そのために私にできることは、生産だ、これが生産人としての私の最大の使命だ、ということであった。
「全従業員に告ぐ」松下社長が訴えたこととは
翌16日。街は死んだような静けさの中にあった。会社に出てみたが、誰もが仕事に手もつかない様子であった。これではならないと考えた私は急遽(きゅうきょ)会社の幹部を招集した。そして私は訴えた。
「3年有余にわたる総力をあげた戦争も、いかんながらついにこの結末となった。国民としてこれほど悲しいことはない。しかし陛下は“耐え難きを耐え忍べ”と仰せられた。この仰せに従って、われわれは悲しみに耐え、苦しみに耐えて、直ちに国家の再建にとりかからねばならない。これが国民としての何よりの義務だ。わが社もまた本来の使命にもとづき、迅速に工場の整備を行い、1日も早く家庭電気器具の増産を行わなければならない。そこにわれわれの使命があり責任がある。悲しめば限りもないが、ともかくも直ちに行動にとりかかろう」
そして幹部社員と再建について真剣に協議を始めたのである。つづく20日には「全従業員に告ぐ」というゲキを私は全社中にとばした。その内容はこうである。
「この一大変革期に臨んで、わが松下電器は、もっとも速やかに本来の平和産業に復帰し、日本再建への第一歩を力強く踏み出した。生産こそ復興の基盤である。私は諸君に、一日も早く復興生産の先達たるの栄誉をになってもらいたいと思う。そしてますます伝統の松下精神を振起してもらいたい」
敗戦は悲しい。しかし国家の再建は一刻一秒を争う国民の急務である、絶対に虚脱状態のままであってはならないのだ、こう私は考えた。こうして1万5千人の全従業員を激励し、またみずからをもムチ打って、積極的な生産活動に入っていった。