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あの幸せな日々が甦る…北海道日本ハム初代ユニフォームにジーンときた夜

文春野球コラム ペナントレース2022

 今回、僕が書きたいのは「ファイターズ・クラシック」のことだ。9月6、7日のオリックス戦を皮切りに、17、18、19日のロッテ戦、20日のソフトバンク戦まで、都合ホームゲーム6試合で展開される復刻ユニフォーム企画。企画概要はありふれたものだ。選手がオールドユニフォームを着て試合をする。ファイターズはこれまでだって東京時代の(何種類かの)復刻ユニをよみがえらせたことがあるし、東映フライヤーズのユニを再現したこともある。

 たぶん日本球界で先鞭を付けたのは西武の「ライオンズ・クラシック」企画だと思う。頑なに「SINCE1979」をグッズに謳い、黒い霧事件のイメージを遮断してきた西武が「西鉄ライオンズ」を受け入れたのだった。僕らパ・リーグ党は「ついに歴史が繋がった」と感無量だった。あれから各球団は、復刻ユニを毎年のように出し続けたが、所沢に「西鉄ライオンズ」が召喚された日ほどのインパクトは感じない。

 この「ファイターズ・クラシック」の北海道日本ハム初代ユニフォームを除いては。

9月6日の「ファイターズ・クラシック」初戦

全員、むしろこのユニを着るべきだったと思える

 6日、新庄ファイターズの選手らが初代ユニで出てきたときはちょっと震えた。札幌ドームにあの頃のファイターズが帰ってきた。感覚としたら、MLBの「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」で、トウモロコシ畑から選手が出現した感じに似ている。長年心のなかに仕舞い込んで、忘れられずにいた札幌ファイターズ。

 わけもなく「よっしゃー」などと言っていた。これこれ、これなんだよ。SHINJOフィーバーの、稲葉ジャンプの北海道日本ハムファイターズ。金子誠と田中賢介の二遊間。突撃突撃ひちょり。若きエース、ダルビッシュ有。これが魂のなかでいつも揺れていた。涙が出てきてしまう。北海道日本ハムファイターズはあの頃のように爆発したいんだ。

 僕は「上沢ものすご似合うな……」なんてジーンときている自分が意外だった。懐かしさなら70年代、青赤帽の後楽園ファイターズだ。あれが僕の青春だ。思い入れなら90年代、紺色ストライプの東京ドームファイターズだ。「ビッグバン打線」のニックネームを仕掛けた。だから北海道移転は身体をちぎられて持っていかれるような喪失感だった。何日も何日も心の奥で血を流していた。僕はあそこで半分くらい死んだような気がする。想像してみてほしい。阪神タイガースが鹿児島へ移転するのを。ヤクルトスワローズが愛媛へ移転するのを。心が死んでしまう。北海道のチームなんて応援できるんだろうかと本当に思っていた。

 僕が前線に残ったのは幸運によるものだ。田中幸雄や小笠原道大、岩本勉を見捨てられないファン心理もあった。が、それ以上に家族ぐるみのつき合いになっていた森本稀哲だ。ひちょりは東京っ子で、まだ半人前だった。僕はひちょりに本当に感謝している。彼を応援することで「北海道日本ハムファイターズ」とはぐれずにすんだ。心が死ななかった。北海道新聞とHBCラジオ(ケータイサイト)でコラムの連載も始められた。この文春野球もそうだけど、書いてるうちに夢中になるよ。

 93世代の上沢直之や松本剛、近藤健介はこのユニフォームを着ていない。ぎりぎり中島卓也、杉谷拳士までじゃないか。なのに信じられないほど似合っていた。ていうか、上川畑大悟も谷内亮太もヒルマン監督の胴上げのときいなかったとは思えなかった。清宮幸太郎と万波中正は絶対、ビールかけのときマシーアスとはしゃいでいたに相違なかった。似合ってない選手がいない。全員、むしろこのユニを着るべきだったと思える。

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