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超人ではない“等身大の泥臭いエース”内海哲也に励まされた日々

文春野球コラム ペナントレース2022

 少しずつ「その時」が近づいています。内海哲也投手の引退セレモニーが9月19日に迫っています。

 今回のコラムを書くにあたっては、大きなためらいがありました。僕の脳内に搭載されている“炎上回避装置”が、けたたましく警報を鳴らしています。

 まずは西武ファンの方々へのお詫びから入らせてください。現在の内海投手は西武の選手であり、兼任コーチという立場でもあります。そんな内海投手への思いを巨人ファンの書き手が文章にすれば、締めで「いつの日かジャイアンツのユニホームを再び……」と書かずにはいられません。「西武の内海投手」を応援しているファンからすれば、「何言ってるんだよ!」と思うに違いありません。

 それでも、今回は「純烈」とか「タレント」とか、そういった僕を取り巻く枠組みをすべて取っ払って、一人のジャイアンツファンとして思いの丈をつづらせてもらえたらと思います。

内海哲也

内海が投げると試合時間が長かった理由

 僕にとって内海投手は「親近感の湧くエース」という存在でした。

 プロ野球死亡遊戯こと中溝康隆さんがよくこんなニュアンスのことを書いていました。「ON(王貞治さん、長嶋茂雄さん)だと遠すぎるけど、原辰徳さんだと親しみを込めて『タツノリ』と呼べる」と。内海投手は2年連続最多勝のタイトルまで獲った大投手なのに、原さん以上に親しみやすい存在だったように感じます。

 通算135勝104敗、防御率3.24。内海投手がここまで積み上げた数字の重さを感じずにはいられません。

 ランナーの出塁を許しては帽子を取って腕で汗を拭い、帽子をチョコンと浅くかぶってはボールを入念にこねて、再び帽子を目深にかぶる。

 そんな内海投手の一連の所作を今でもありありと思い浮かべられます。ランナーを出すたびにこのルーティンが繰り広げられるので、内海投手が先発するといつも試合時間が長かったイメージがあります。

 内海投手には圧倒的なスピードも球威もありません。ランナーもよく出していました。かといってダルビッシュ有投手のように淡々と投げるわけではなく、田中将大投手のように今にも襲い掛かりそうな獰猛さを前面に出すわけでもない。やっぱり帽子を取って汗を拭う姿ばかりが思い出されます。

 1試合1試合、1球1球、丁寧に、丁寧に投げていました。時には間(ま)をとって、時にはボールを曲げたり、落としたりして、あの手この手で打者を打ち取る。そうやって積み重ねた1勝1勝が、135まで積み上がったのです。

 プロ野球のエースとは「怪物」だらけです。巨人の歴代エースたちも、強烈な個性の持ち主ばかりでした。

 内海投手はアマチュア時代から有名で、巨人を逆指名して希望入団枠制度で入団しています。一見するとエリートですが、その道のりは泥にまみれていました。僕には20代中盤の頃の内海投手が、よく「ジャイアンツのエースになりたい」というコメントをしていた記憶が残っています。

 歴代のエースたちは「エースになりたい」なんて発言しなくても、自然とその地位を確立していました。上原浩治さんにしても、菅野智之投手にしても、圧倒的な結果を残すうちに自然と周囲が「エース」と呼ぶようになっていました。

 でも、内海投手は原辰徳監督からの信頼を勝ち取るのに時間を要しました。WBC日本代表に選ばれ、世界一を経験した2009年は9勝12敗と負け越し。原監督からは「ニセ侍」という、今ならハラスメントと認定されかねないレッテルを貼られています。もちろん、原監督としても内海投手に骨太なエースになってもらうため、あえて厳しく接していたのでしょう。

 内海投手が名実ともに「エース」と呼ばれるようになったのは、2年連続で最多勝を受賞した2011年、2012年ではないでしょうか。とくに18勝を挙げた2011年はドラマチックでした。

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