1ページ目から読む
2/2ページ目

ファイターズに来てから柴田は開花する

 で、僕はこのトレードに憤慨したクチだ。僕は阪神時代から江夏の大ファンだった。かつての快速球左腕がキャリアを重ね、「優勝請負人」のストッパーとしてファイターズにやって来た。好きな選手が好きな球団に来たのだ。当時、学生時代の僕は狂喜乱舞だ。しかも、81年のパ・リーグ制覇で大沢親分を男にしてくれた。その江夏を何が悲しゅうて西武に出さにゃならん。しかも、相手は実績のない投手2枚だ。損得で言っても大損。そもそも江夏が西武の管理野球に合うわけないだろう。

 江夏の西武入りは今でも本当にもったいなかったと思う。結局、広岡達朗監督と反目し、キャリア晩年の貴重な時間を2軍で空費することになる。が、柴田保光に関しては僕の目は節穴だった。江夏を放出するだけの価値があったと認めざるを得ない。ファイターズに来てから柴田は開花する。金山勝巳コーチのアドバイスでスリークォーターに転向してから課題の制球力がついた。シュートとスライダーの対角線投法だ。ファイターズ移籍2年目の85年からはローテーションを守り、2年連続2ケタ勝利を達成、87年に血行障害の手術を受けるが、89年からは再び主力投手として大活躍した。

 そのキャリアの特徴は強敵相手に胸のすくようなピッチングをしたことだ。福本豊、簑田浩二、ブーマー、松永浩美と猛者揃いだった最強阪急ブレーブスを沈黙させ、大石大二郎、新井宏昌、ブライアント、鈴木貴久のいてまえ打線を封じ、辻発彦、秋山幸二、清原和博、デストラーデ、石毛宏典の黄金期西武ライオンズに牙をむいた。僕は後にラジオの仕事で松沼雅之さんに「あの当時、ライオンズでは柴田のことを『日本一のピッチャー』と呼んでいた」という話を聞かされたことがある。戦力充実の西武は格下のハムに負ける気がしなかったそうである。が、唯一、柴田保光が出てくると打てない。コントロールに自信を持った柴田は、清原相手に外角ストライクゾーンの出し入れで勝負するまでになっていた。何で柴田をトレードで出したんだと皆、ボヤいたそうだ。で、いつしか柴田の登板試合に当たると「あぁ、明日は日本一のピッチャーか……」と言うようになったという。

ADVERTISEMENT

※もちろん放送上、「オトやん、何それ、ずいぶん上から目線ですねぇ」と一応、イヤミは言っておきました。

 血行障害から立ち直って、89年から9勝12敗、12勝10敗、9勝9敗、6勝12敗、7勝11敗だ。負け数が多いようだけど、ファイターズが打線の強いチームなら勝ち負けが逆転していたと思う。90年4月25日、近鉄相手にノーヒットノーラン達成。91年は防御率1位の渡辺智男(西武)に0.13及ばぬ「防御率2位」の活躍。オールスター3回出場の人気選手でありながら控えめな人柄はあい変わらずで、名護キャンプでサインをねだった知人が「僕なんかのサインでいいんですか?」と真顔で返されたと驚いていた。

後にも先にもあんな球威のある引退試合の投球を見たことない

 僕は柴田の引退試合が忘れられない。94年シーズンの終わり、2000本安打の大打者・大島康徳とともに、突然、柴田の引退が発表された。青天の霹靂(へきれき)だった。心臓疾患でドクターストップがかかったというのだ。そんなこと言ってもその前のシーズン、7勝11敗(2完封)と実働している。キツネにつままれたような気持ちだ。9月28日は大島康徳引退セレモニー、本拠地最終戦の29日は柴田の引退セレモニーだった。東京のハム党はしょげ返った。前年、大沢親分復帰で西武を猛追し2位で終わったのに、この年は屈辱の最下位だ。しかも、大沢親分勇退、大島引退と寂しいニュースが続いた。その上、まさか柴田が引退なんて。その衝撃を伝えるために無理矢理、2022年に置き換えると「加藤貴之引退」くらいじゃないか。イスから転げ落ちそうなやつだ。

 柴田保光の引退セレモニーは試合前、メモリアルピッチが圧巻だった。引退挨拶の後、始球式と同じ要領で柴田がマウンドに立つ。ロッテの1番が打席に入る。マウンド脇でこの日先発の岩本勉が見守る。柴田は表情を変えない。外角いっぱいにものすごい剛球が投じられた。キレ抜群。僕は後にも先にもあんな球威のある引退試合の投球を見たことない。間違いなくそのままロッテ戦の先発が務まった。そりゃそうだ。うちのローテ投手だ。

 僕は記憶のなかで何度も柴田のメモリアルピッチを反芻している。あれは控えめで実直な男の自己主張だった。心臓疾患で本意ならずユニフォームを脱ぐけれど、オレはまだやれる。この後、投げる岩本の球と比べてくれ。対角線投法の生命線、外角いっぱいに投げてやる。オレを忘れるな。オレの誇りを忘れるな。そう言ってたんじゃないかと思うのだ、言葉でなく、投球で。

 柴田保光投手、おつかれ様でした。

 熱いピッチングありがとうございました。

 僕らはずっと柴田さんを忘れませんよ。こうやって北海道のファンにも語り継いでいきます。

 でも、あまりにも早すぎます……。

 さようなら。安らかに。

 追記、実はユニフォームを脱いでからの後日談があって、ダイエー根本陸夫GMが現役復帰を持ちかけていたそうだ。根本さんは柴田の西武入団の面倒を見た間柄だ。つまり、柴田保光は(心臓疾患をケアしながらでも)十分戦力になると見られていた。ただ柴田は本当に彼らしい反応を見せる。「根本さんに迷惑がかかるから」とこれを固辞するのだ。恩人と世話になった日本ハム球団との軋轢は望まなかった。

◆ ◆ ◆

※「文春野球コラム クライマックスシリーズ2022」実施中。コラムがおもしろいと思ったらオリジナルサイト http://bunshun.jp/articles/57447 でHITボタンを押してください。

HIT!

この記事を応援したい方は上のボールをクリック。詳細はこちらから。