柴田保光のことを書かなくてはならない。「平成初のノーヒットノーラン 84勝」「9日午後5時30分頃、埼玉県内の病院で不整脈のため死去 65歳」と新聞は報じてくれているが、実際問題、書いている若い記者さんは柴田のピッチングを見ていない。調べたことを情報として伝えるだけだ。それから北海道のファイターズファンは柴田のすごさを知らない。彼の活躍した時代は80年代半ばから90年代あたまにかけて、北海道移転前なのだ。もちろん当時だって北海道にパのファンはいたと思うが、50代オーバーということになろうし、少数派だ。東京時代のファイターズはブラックボックスなのだ。
スタンドでそのピッチングを見た者が、血肉化した柴田保光を語らなければ「平成初のノーヒットノーラン 84勝」のアウトラインしか残らない。だってそうでしょう。鎌倉健は「7勝」、糸数敬作は「8勝」だ。これだけじゃあの頃の空気感は何も伝わらない。「よし糸数か。明日は勝てる!」と思った理由がわからない。。吉川光夫が55勝(日本ハムでは48勝)と書いて、あの光と影の物語がイメージできるだろうか。ときめきや落胆、あの日あのとき球場で魂を焦がしたものはみんないつか消えてしまうのだ。
マンガみたいなチームだった「あけぼの通商」
「あけぼの通商」という謎の社会人チームから話をさせてほしい。このチームは本当に何だかわからなかった。1976年から85年まで存在し、消えてしまった九州の雄だ。本拠地は福岡県糟屋郡志免町。ファイターズ関係でいうと俊足好打の島田誠(76年ドラフト外で日本ハム入団。現在は解説者)、そして柴田保光(78年ドラフト2位で西武入団、84年から日本ハム)の2人が所属していた。どうも味噌や醤油の行商をしていたらしい。ファイターズの「1番センター」と「エース右腕」は訪問販売をしていた。一体、何だそれはと思うじゃないか。
「あけぼの通商での仕事は、朝十時に商品を積んだライトバンで事務所を出て、団地などの人の多いところを売って回り、夜十時が帰社です。ジャージに短髪で、たくましい男たちが団地で声を張り上げると、なにか変なふうに見られたものです。戸別にドアをたたき、突撃販売を試みても十中八九は『いらない』と門前払いです。そのたびにくじけそうになるんですが、『いや、一度断られたくらいなんだ。スポーツマンは、二度目も行くんだ!』などと強がりをいいながら、また別のドアをノックする繰り返しでした」(『それでも野球が好きだから』島田誠・著、海鳥社より)
実はこのあけぼの通商というチームは76年、不況のあおりで廃部となった丹羽鉦電機野球部の選手をそっくりそのまま引き取った特殊な成り立ちなのだった。「オヤジさん」こと池田義定社長の義侠心が生んだ野球部だ。目標は20名の選手らの「3年でのプロ入り」。練習は町営グラウンド。だから実業団チームというより、プロ虎の穴だ。(表向きは否定されるも)伝説となっているのは都市対抗予選での1回戦負けルール(?)だ。遠征費や宿泊費がなく、暗黙の了解として1回戦負けをしていたとされている。練習試合では九州の強豪実業団チームを打ち負かすくせに、本大会が東京(後楽園球場)で行われる都市対抗の予選はサクッと姿を消す。笑いが止まらない。マンガみたいなチームじゃないか。
柴田保光はその雑草軍団・あけぼの通商から78年、西武に入団する。ちなみにプロ入りしたあけぼの通商出身選手はほとんどがドラフト外だ。76年中日2位の生田裕之と78年西武2位の柴田(ともに投手)は大変な高評価だった。ひと足早くファイターズ入りしていた島田誠がバイタリティーの塊だったのに対し、柴田は本当に味噌醤油を売り歩いていたのかなぁと思うような、控えめで実直なタイプだった。黎明期の西武にあって実働5年、81年の4勝がキャリアハイだ。期待に応えられず、83年、江夏豊との1対2トレード(西武側は柴田と木村広)でファイターズに移籍する。