文春オンライン

2022/10/26

誰よりも人間らしさを持ったプロ野球選手

 2018年5月31日。横浜スタジアム。この日からむしくんは一軍に昇格していた。交流戦の真っ只中である。この日の相手はイーグルスで、私を含めたファームの寮生は、ロビーで中継を見ていた。我らがむしくんは9回表の守備から出場していた。むしくんが試合に出ただけで「幸輝さんきた!」といった歓声が上がる。試合は延長10回裏、一打サヨナラの場面で、打席には彼である。テレビの前の我々は、祈るような気持ちで観戦を続ける。イケイケではなく、お祈りのような、そんな感じだ。彼は今シーズン初打席、そして相手投手はあの松井裕樹投手である。

 初球、アウトコースへのスライダーに、彼のバットは大きく空を切る。

 2球目、ストレートに差し込まれてファール。あっという間に追い込まれていく。

 がんばれ幸輝さん、粘れ! そんな細い声が周りから聞こえる。私も同じ気持ちだった。なんとか粘って、次の打者に繋いでくれ。それで十分だよ、がんばれ……静まったロビー、投じられる3球目、決めにきたスライダー。ただ、同じ轍は踏まない。最後に笑ったのは幸輝だった。そのバットが捉えた打球は、ライトの頭を越えていた。

 湧き上がる大歓声。大騒ぎのロビー、ホームインした桑原選手の後に映されたむしくんは、揉みくちゃにされていた。笑っていたはずの彼は号泣しながらフラフラと歩いている。凍りつきそうな表情で打席に入り、たったの2球で泡のように消されそうになっても、君に見せたいのはあのブルーのスタンドが大歓声に沸く、その瞬間だ。俺は、負けない。そんな魂の打席を、心の奥にぶち込まれた。

2018年5月31日、プロ初のサヨナラ打で宮崎敏郎と抱き合い涙する山下幸輝

 もちろんこれは私にだけではなく、ファームで共に汗を流していたみんなにも届いている。ロビーではむしくんより泣いているんじゃないかというほど号泣する後輩の姿もあった。これは、むしくんだからこその光景である。彼の暖かさは、強さは、周りに伝わるのだ。山下幸輝とは、そういう男なのだ。試合後すぐお祝いの連絡をすると『ファームの人から連絡来ると泣いちゃいます』と返事をくれた。ありがとうでもなく、次も頑張りますでもなく、泣いちゃうのである。元気者で、ムードメーカーで、ガッツのあるむしくんは、誰よりも人間らしさを持ったプロ野球選手なのである。

 誰からも愛された彼は、先日引退を表明した。決して強いだけじゃない彼が、死に物狂いで戦い抜いた野球人生に心から敬意を表するとともに、今後の彼の人生が彩りあるものであることを願っている。泥まみれでも、汗まみれでも戦い抜くことのすべてを、教えてくれてありがとう。

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