「じつは『沈黙のパレード』の映画化が決まったころに、『打て』と指示がありました。『たいへんお待たせしました、次の打席では大きく振っていただきます』と(笑)。
とはいえ自分の役割を果たすという意味ではこれまでとやることは変わりませんが、今回はどこまでやっていいのか、さじ加減がむずかしかった。だから撮影前に西谷弘監督とちょこちょこ会って相談しましたね。
たとえば脚本からは漏れた原作のエピソードをふまえた芝居のアイデアを提案したり、それくらいのところまでは踏み込みました。ただ、あくまでも今回の自分の役割を全うするためにやったことであって、私利私欲はなかったです」
「僕も原作を読むとき、湯川には福山さんを当てはめますが…」
北村の草薙への「客観」は徹底していて、新しい原作を手にするときですら自らと草薙を重ねて読むことはない。
「草薙は僕だと思いながら原作を読む方がいらっしゃるのはありがたいことですし、一度でもドラマや映画を見ればそうなるのは自然なことだと思います。僕も原作を読むとき、湯川には福山さんを当てはめますから。
ですが、草薙だけはまったく別の人物をイメージしながら読むんです。その人が草薙役を演じている姿を客観的に想像したうえで『自分だったらこうする』とあれこれアイデアを練る。ちなみに僕が想像する“草薙役”は実在の人物ですが、だれなのかは言いません(笑)」
つねにそんな姿勢だから、『沈黙のパレード』の原作を初めて読んだときも自分の役のことより「この物語をいったいどうやって映画にするのだろう?」と気になって仕方がなかった。
というのも、原作はシリーズの長編小説のなかでもっとも長く、登場人物が多い。性別も年齢も属性もバラバラの複数の人物それぞれにある殺人事件の容疑がかかるという、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』を彷彿とする群像劇のようなミステリーに仕上がっている。
「たとえば同じ長編でも『容疑者xの献身』はどんな映画になるのかが事前になんとなく想像できましたが、『沈黙のパレード』はあまりにもエピソードが多い。はたして1本の映画に収まるのかと心配していたものの、完成した映画を試写で見て杞憂だったとわかりました。
とくに冒頭15分の夏祭りのシーンには度肝を抜かれましたね。街の人びとが地元の祭りを思い思いに楽しむ光景を自然に映しているようでいて、その15分ですべての登場人物の関係性が説明されている。画の隅々までいっさい隙がないのです。これこそ西谷作品の真骨頂だとあらためて感じました」