武士が「大人」になるということは、合戦に参加するということでもありました。
源頼朝の挙兵直後、当時は平氏方であった武蔵国の武士である畠山重忠が源氏方の三浦氏を攻撃した際、重忠は17歳でした。また、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際、藤原氏方として討死した下須房秀方は13歳でした。秀方は、味方の敗走後も一人留まり、若年にもかかわらず力が強く、秀方を討った武士と長時間、対等に戦ったということです。
15歳というのも区切りとなる年齢でした。
筑前国の武士である平清光が亡くなった時、清光が持っていた長淵荘という荘園の地頭職について、清光の子の吉鶴丸が15歳になるまでは伯父の時行が支配し、16歳になって以降は時行は関与しないということが取り決められています。
また、15歳以前の子供は処罰しないという慣例もありました。
源頼朝、北条義時らが送った「ラブレター」
鎌倉武士も恋をしました。恋のきっかけはさまざまと思われますが、恋の始まりに重要な役割を果たしたのは「艶書」つまりラブレターでした。
『吾妻鏡』には源頼朝・北条義時・安田義資・北条朝時らが女性にラブレターを送ったことが記されています。なお、この時代のラブレターには使用する紙や書き方・包み方にも一定の作法があり、和歌に一言添える程度がよいとされていたようです。
ここで気になるのはラブレターを送った時の年齢で、頼朝は36歳、義時は30歳、義資は父の年齢からすると40歳前後、朝時は19歳でした。また、頼朝・義時は既に結婚して子供もおり、義資も同様と考えられます。朝時についてははっきりしませんが、次男の誕生した年から考えると既に結婚していた可能性があります。正妻のほかに側室をもつことも多かった当時は、結婚後の恋もあったのです。
北条朝時がラブレターを送った相手は、将軍源実朝の御台所つまり妻に仕える、京都から鎌倉に下ってきた女性でした。この女性は朝時のラブレターによる求愛に応じなかったのですが、これに対して、朝時は深夜にこの女性の部屋に入り「誘し出す」つまり誘拐してしまいます。この結果、朝時は実朝から叱責され、父親からも親子の縁を切られて駿河国(現在の静岡県東部)富士郡に謹慎することとなりました。
現在でも誘拐婚の風習が存在する国がありますが、この時代の日本にも女性をさらって無理やり妻とする行為がありました。これは「女を盗む」あるいは「女捕」と呼ばれており、『御成敗式目』では禁止されていますが、追認あるいは既成事実となってしまう場合もありました。