大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時をはじめ、鎌倉幕府のトップである「鎌倉殿」に仕えた御家人たち。彼らは当時、何を食べ何を着て、どんな価値観で生きていたのだろうか。
ここでは、東京大学史料編纂所准教授で日本中世史を専門としている西田友広さんが、古文書や絵巻物などの史料をもとに鎌倉武士たちの生活を明らかにした『16テーマで知る鎌倉武士の生活』(岩波書店)より一部を抜粋。
大人への通過儀礼や恋愛・結婚など、武士たちの人生における重要局面について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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北条義時の三男・重時の家訓にみる鎌倉武士の人生
鎌倉武士はどのような人生を送ったのでしょうか。
子供に対して長文の家訓を書き残した北条重時は、次のように人生を過ごすよう、記しています。
人が年齢によってふるまうべき順序は、二十歳くらいまでは何事も人がするほどの芸能・技能に親しむように。三十歳より四十・五十歳までは、主君を守り、民を育み、身を修め、物事の道理を心得て、礼儀作法を正しくして、心の内には(仏教の)五戒を保ち、政治の道を主とするように。政治の道は天下を治める人も、また夫婦があって家庭を治める人も、義の正しいありようは同じはずである。そうして六十歳になったならば、何事をも打ち捨てて、ひたすら後生の極楽往生を願って念仏せよ。
若いうちには、一通り人並みの芸能・技能を身につけ、壮年期には、主君に仕え、民衆を慈しみ、自らを正しく律して政務に勤しみ、還暦を過ぎて老境に入ったならば、ひたすら極楽往生を願って念仏を行って過ごすよう説いています。
六波羅探題・連署として幕府政治の中枢にあり、その地位を子供に継承させるべき立場として、政治意識・治者意識を説くものとなっていますが、同じく所領を治める地域の支配者である、そのほかの武士たちにも共有されるものでしょう。
今で言う、中学生くらいの年齢で…
北条重時は20歳くらいまでを若年期として区切っていましたが、20歳以前にも区切りとなる年齢がありました。
武士たちが一人前の社会人となるための通過儀礼として元服が行われました。元服に際しては、髪型を大人と同じものに改め、烏帽子をかぶせてもらいました。この時、烏帽子をかぶせてくれる人を烏帽子親と言い、実の親に準じる保護者となりました。
元服はだいたい10歳前後で行われ、『御成敗式目』を制定した北条泰時は12歳(数え年。以下、同じ)、その弟の朝時は13歳、同じく政村は9歳で元服しています。一方、モンゴル襲来に対応した北条時宗は七歳、曽我兄弟の敵討ちで知られる曽我時致は17歳で元服しており、さまざまな事情により前後することもありました。
現在であれば中学生くらいの年齢で「大人」になっていたわけです。
この年齢になると、武士として武芸の練習も本格的に始まりました。源頼朝の跡を継いで2代目の将軍となった頼家が、初めて小笠懸(近距離の的を射る笠懸)を行ったのは9歳の時でした。
また、工藤景光という甲斐国の武士は、自分は11歳の時から狩りを行ってきたが、これまで自分の左側(弓を持つ腕の方向で、矢を射やすい)の獲物を逃したことはない、と言っています。狩りは、馬に乗って弓を射る練習でもありました。