昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「やぐらの上から幕府方の武士を射殺し…」「父兄にも勝る弓の名手で」巴御前にも引けをとらない? 実在した“無敵の女武者”

『16テーマで知る 鎌倉武士の生活』より#1

2022/10/23

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、俳優・小池栄子が熱演している“尼将軍”北条政子。3代目「鎌倉殿」実朝の亡き後、鎌倉幕府の実権を握ることとなる政子だが、当時女性が政治的権力を握ることは、どれほど珍しいことだったのだろうか。

 ここでは、東京大学史料編纂所准教授で日本中世史を専門としている西田友広さんが、古文書や絵巻物などの史料をもとに鎌倉武士たちの生活を明らかにした『16テーマで知る鎌倉武士の生活』(岩波書店)より一部を抜粋。当時の女性の意外な地位について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

©iStock.com

◆◆◆

鎌倉時代、女性の地頭も存在した

 鎌倉幕府は女性も地頭に任命していました。

 源頼朝の乳母で、下野国の有力武士である小山政光の妻であった寒河尼と呼ばれた女性は、頼朝から下野国の寒河郡と阿志土郷の地頭に任命されています。

 また、石見国では、益田兼長という御家人の死後、益田荘の地頭職は娘の千手に、伊甘郷の地頭職は妻の阿忍に、継承されています。

 益田荘は千手からその息子の兼弘に継承されました。阿忍も同じく伊甘郷を孫にあたる兼弘に譲りましたが、後に兼弘と対立することになり、別の孫である鶴夜叉という女性に伊甘郷を譲り直しています。両親や祖父母が、一旦譲与した所領を取り返して別人に与える「悔い返し」が行われたことになります。

 子供のいない女性が養子をとってその所領を譲与することも行われていました。朝廷の法では、女性が養子に所領を譲ることは認められていませんでしたが、『御成敗式目』ではこれを武家の慣習として認めています。

 女性の地頭も男性の地頭と同じような活動をしていたと考えられます。

 播磨国永谷村の地頭であった小野氏女は、法光寺・永谷村での殺生禁断と禁酒について定め、下司や地頭代とともに、花押(サイン)を記しています。

 また、安芸国沼田荘梨子羽郷の地頭で、小早川雅平の娘の覚証と同一人物と考えられている女性は、所領内の寺院の院主の地位をめぐる訴訟の裁判を行い、判決書に花押を書き記しています。

 肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の御家人である山代固の妻であった女性は、自分自身で務めたのか、男性の代官に務めさせたのかはわかりませんが、京都大番役のために在京していたことが知られています。

 小沢女房と呼ばれた女性は、幕府が京都の内裏の造営を行った際、「宮御方西渡廊という建物の造営を割り当てられています。この女性は北条時政の娘と稲毛重成との間に生まれた女性の娘で、武蔵国小沢郷を知行していた女性の可能性が高いと思われますが、ほかの御家人と並んで、内裏の造営を分担しています。

 鎌倉時代の武家の女性は、地頭に任命されることも、その地頭職を自由に譲与することもできました。また、それにともなう所領の支配や幕府への奉公も行っていました。