北条義時、1年以上の片思い?
鎌倉殿の御所に女房(女官)として仕える女性もいました。
前に触れた比企朝宗の娘は御所に仕えており、「権威無双の女房」と呼ばれる有力な女房でした。この女性は容貌も美しく、義時は1年以上も思いを伝えていたのですがこれに応じず、源頼朝の仲介で離婚しないという誓約書をとって結婚しました。
陸奥国の御家人である伊達念西の娘は大進局という名前で女房となっていました。大進局は源頼朝に気に入られ、男子(後の貞暁)を出産しています。
女房として御所に仕えることも鎌倉殿への奉公であり、これに対して御恩として地頭職が与えられることもありました。
弓と馬を操る、一騎当千の“美女”
前に京都大番役のために在京していた女性について述べましたが、実際に武器を採って合戦に参加する女性もいました。
『平家物語』には、木曽義仲に仕えた巴(鞆絵とも書く)という女性が登場します。巴は色が白く髪が長い美女で、強弓を用い、乗馬に巧みな一騎当千の人物として描かれています。
巴が実在の人物かどうかははっきりしませんが、越後国の城氏の一族に坂額御前という女性がいました。坂額は父兄にも勝る弓の名手で、城氏が蜂起した際には、児童のような髪型にして腹巻を身につけ、櫓(やぐら)の上から多くの幕府方の武士を射殺しています。
源義朝に仕えた渋谷金王丸という児童を描いた絵があります。着ているのは腹巻ではなく大鎧ですが、坂額もこのような姿で合戦に参加していたということになります。
平安時代末期から鎌倉時代の史料には「女騎」という言葉が見られます。これらの女騎の多くは騎馬で行列に加わった女房を指しており、武力を期待された存在ではないようです。一方、南北朝時代の史料には合戦に向かう山名氏の軍勢の中に多くの女騎がいたことが記されており、実際に合戦に参加して戦う女性が一定数存在したことは間違いないようです。
ただし、これらの女武者がどの程度一般的な存在であったかは難しい問題です。『平家物語』(延慶本)では巴について「女なれども」と、『吾妻鏡』では坂額について「女性の身たりといえども」・「人、挙げて奇特といふ」と記しており、こうした女性が珍しい存在であったことがうかがえます。
また『平家物語』(延慶本)では、巴は乱戦の中で行方不明となりますが、『平家物語』(覚一本)では、義仲が「おまえは早く早く、女なのだからどこへでも行け。(中略)木曽殿は最後のいくさに女を連れていたなどと言われるのもよろしくない」といって巴を落ち延びさせています。
山名軍の女騎も、山名軍が噂よりも数が少なく猛勢ではないという文脈で女騎が多いと記されており、女騎は戦闘能力という点では劣っているという評価がうかがえます。