武士社会で“離婚”…財産分配はどうなる?
鎌倉時代の武士の家では、妻は夫の館に同居するようになっていました。北条義時が比企朝宗の娘と結婚した際、この女性は義時邸に入っており、北条時宗が安達泰盛の妹と結婚した際、この女性は甘縄にあった安達邸から出発しています。また、宝治合戦の際の『吾妻鏡』の記事からは、三浦泰村邸にその妻が同居していたことがわかります。
前に見たように、鎌倉時代の女性は地頭職を持つこともあり、親から所領を譲られることもありました。これらの所領は夫の財産とは別に、妻自身の財産として扱われました。一方、夫から譲られた所領については、少し扱いが異なることが『御成敗式目』からわかります。
鎌倉時代の武士の社会では離婚は比較的多く見られます。このとき、妻に重い罪がある場合は、譲状などの文書があったとしても、その所領を妻がそのまま所有することはできませんでした。ただし、妻に落ち度がなく、夫が新しい女性を愛して元の妻を離縁する場合、夫は妻に譲った所領を取り戻すことはできませんでした。
また、夫が死去して後家となった妻が再婚した場合には、夫から譲られた所領は夫の子供に与え、子供がいない場合には、幕府が処分することになっていました。『御成敗式目』には、その理由として、夫から所領を譲られた妻は、夫の死後はひたすら夫の菩提を弔うべきであるのに、貞節の心を忘れて再婚するのは問題であると記されています。
このため、夫の死後、その前妻の子と、後妻との間で所領をめぐる紛争が発生した場合、後妻が再婚しているかどうかが訴訟の争点となる場合がありました。これについて幕府は、女性が再婚先で「所領の成敗」や「家中の雑事」を行っている場合は再婚していると認定するが、「内々の密儀」である場合には再婚の噂があったとしても、再婚とは認定しないと基準を定めています。
このことからは、御家人の妻は、夫の家の所領の支配や経営、家政の運営に関与する存在であったことがわかります。