変わる女性の地位、愛した娘に所領を譲りたかったが…
自身が直接任命されたり、親から譲られたりして地頭となり、自身の所領をもっていた鎌倉時代の女性の地位は、鎌倉時代の中期以降、次第に変化してゆきます。
1256(建長8)年に子供たちに所領を譲与した茂木知宣という下野国の御家人は、堺殿と呼ばれる娘に譲った所領について、その死後は惣領の知盛が知行(支配)するよう定めています。また男子に対しても、その女子にはその生存中だけ「少分」の所領を与えるようにと定めています。
このように、その生存中だけ知行することを認められた所領を「一期分」と言い、女性や、惣領以外の庶子への所領譲与は、次第にこの一期分となっていきます。この背景には、すべての子供たちに所領を譲与する分割相続が、所領の細分化によって困難になってきたことがありました。
またモンゴル襲来による影響もありました。二度のモンゴル襲来の後も、幕府は三度目の襲来を警戒し続けなければなりませんでした。特に九州では異国警固番役による臨戦態勢が継続され、戦力確保の必要から、1286(弘安9)には、異国警固の継続中は九州の所領を女子に譲与してはならず、男子がいない場合は親類を養子として所領を譲るよう、幕府によって定められました。
その後、「警固の要器」(警固に重要な器量)ではないとして、九州の所領を女性が知行している場合は、没収することも定められました。このため、豊前国(現在の福岡県東部・大分県北部)の地頭であった慈恩という女性は、自分の所領を一族の久保種栄に種栄の所領として報告するように依頼しています。
この結果、慈恩の地頭職は最終的には、慈恩の意図に反して種栄に奪われてしまいます。幕府が戦力確保を進める中、九州では女性の所領知行が困難になっていったのです。
鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の内乱が始まると、こうした状況は全国に拡大していきます。
1357(延文2)年に曼殊院という門跡寺院の作成した史料には「総じて、世の中が戦乱となっている際、軍陣に参上することで無二の忠節を示すのが、僧侶・俗人一同の先例です」と記されています。祈祷というかたちではあっても、僧侶も参陣して味方として活動することが求められたのが南北朝時代でした。武家であればなおさらで、味方として戦わない者は敵とみなされました。こうした戦乱状況の中で、女子へ所領を譲与することが困難になってゆきます。
安芸国の三入荘の地頭であった熊谷直経には虎鶴御前という娘がいました。直経は、正妻の産んだ長女で、特に愛していたことから、三入荘の全体を虎鶴御前に譲りたいと考えていましたが、「公方御公事軍役等」のため、これを男子の虎熊丸に譲与することにしました。軍役を果たすためには、所領を男子に譲るしかなかったのです。
戦争が女性の地位を変えていくことになったのです。