鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の正室である北条政子を筆頭に、北条氏といえば当時の政治権力の中心を握った一族として知られている。しかし、歴史学者・本郷和人氏によると、そのルーツは実は名もなき“田舎武士”だったという。それでは、北条一族はどのようにして権力を手にしてきたのだろうか。

 ここでは、本郷氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書)の一部を抜粋。北条氏のルーツ、そして三谷幸喜氏の脚本による大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれる「13人の合議制」が生まれた背景について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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定かではない北条氏のルーツ

 そもそも北条氏とは何者なのか? そして頼朝と出会う前、北条時政とはいかなる人物だったのか? 実は、これはほとんど定かではありません。

 北条氏が伊豆長岡にある北条郷に本拠を持っていたことは確かです。平成になって、伊豆の国市にある北条氏の館があった場所を発掘したところ、大量の出土遺物と建物跡が見つかっています。そこから北条氏は豊かで大きな勢力をもっていた武士であるという説もありますが、少なくとも文献資料では、北条時政以前にはまったく活躍の記録が確認されていません。平家の血を引いているのは嘘ではないとは思いますが、系図自体がどうもはっきりしないのです。

 さらに言うと、時政は北条氏の本家の当主ではなかった可能性もあります。時政の親族に北条時定という人物がいますが、この人は早い時期から官職を持っている。時政は、その時点では何の官職も持っておらず、北条四郎と表記されています。

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 『吾妻鏡』(編集部注:鎌倉時代に成立した歴史書)では、時政を「当国の豪傑」としていますが、これは他に特筆すべきことがないときの常套句です。つまり、大した財力も官位もなく、地元以外には名前もほとんど知られていない田舎武士だったと考えて間違いないでしょう。

 頼朝の旗揚げの時、北条時政は持てるすべてを挙げて、サポートをしたはずです。もし、失敗することがあれば、平家によって滅ぼされてしまうことは確実だからです。背水の陣で臨んだ時政が集めた兵隊は50人から60人程度。一国を代表する武士は300人ぐらいの動員力をもっていましたので、その5分の1程度の小さな勢力だったわけです。

 ただし、地方の無名な小領主であってもあなどってはなりません。私が、時政はやはりただ者ではなかったと実感したのは、彼の直筆の手紙を見たときです。当時の武士のほとんどはまともに文字を書くことができませんでしたが、彼はきちんとした綺麗な文字を書くことができたのです。

 また、時政は義経追討問題の処理のために、文治元(1185)年、京都入りし、朝廷との交渉を行ないます。守護・地頭の設置を認めさせたほか、京都の治安維持や平氏の残党狩りなど多岐にわたる仕事をこなし、「京都守護」と呼ばれるほどの成果を挙げました。その意味で、時政は豪傑風の武士というより、知謀、陰謀に長けた政治家タイプだったのでしょう。