三谷幸喜氏脚本の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれる「源平合戦」をはじめ、鎌倉時代には多くの武士が権力抗争のために血なまぐさい戦いを繰り返した。いわゆる平民である百姓層にも殺生を避ける仏教の教えが浸透していた時代において、すすんで殺生に手を染める武士たち。彼らが持っていた考えとはどのようなものだったのだろう。

 ここでは、歴史学者である本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』の一部を抜粋。鎌倉武士が持っていた独特の死生観について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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武士の異質な「殺生」感覚

 武士とそうでない人々を分ける、決定的な要素、それは「殺生」に対する感覚ではないでしょうか。 

 鎌倉時代の後期に描かれた『男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)』という絵巻物があります。主人公の男衾三郎は架空の存在ですが、物語の中でリアルな設定がなされており、当時の人々の暮らしや武士のありかたを知るのに適した史料です。

 その『絵詞』にはこんな場面が描かれています。

 白い着物を着た男女や葛籠(つづら)を背負ったいがぐり頭の男性が、男衾三郎の館の前を通りがかります。すると、館の中にいた武士がすっ飛んで行って(武士の烏帽子が取れて落っこちていることで、そのスピード感が表現されている)、その通行人を捕まえようとします。なぜ、武士たちは道行く人を捕まえようとしているのでしょうか。

 絵詞には、「絵」だけでなく「詞」つまり文章が書かれています。それによると、

「馬庭(まにわ)の末に生首絶やすな。切り懸けよ。此の門外通らん乞食・修行者めらは(中略)駆け立て駆け立て追物射にせよ」

©iStock.com

 馬庭とは武士の家の庭です。そこに生首を絶やすなと言っている。追物射とは、犬などの動物を矢で射ること。つまり、屋敷の前を通る乞食や修行者を狩の獲物のように矢で射てしまえということなのです。たしかに絵をじっくり見てみると、ある武士は、手につばきして弓に矢をつがえようとしています。

 つまり、この絵は、たまたま通りがかっただけの人を弓で射たりして捕まえて、なぶり殺しにして、家の庭に生首を供えようとする場面なのです。

 私も、最初にこの絵を見たときは驚きました。武士とはこんな無秩序な暴力集団なのかと。

 しかも、男衾三郎はただの武士ではありません。この武蔵国の男衾に住む三郎の父は武蔵大介といって、国の役所で治安を取り仕切っていた有力武士だとされています。言ってみれば武蔵で一番偉い武士で、今なら埼玉県警本部長のような立場だといえるでしょうか。この架空の武士、男衾三郎のモデルは、やはり男衾を本拠地とした畠山重忠だと思われます。そして畠山重忠こそ、仇討ちを描いた軍記ものの『曽我物語』でも、歴史書『吾妻鏡』でも、「鎌倉武士の鑑」と讃えられた人物でした。つまりこの絵詞は、武士の凶暴さを非難するのではなく、むしろ勇猛さを讃えたものなのです。