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「庭に生首を絶やさず置いておけ」たまたま通りがかった人を弓で射る…自らすすんで“殺生”に手を染めていた“鎌倉武士”の独特過ぎる死生観とは

『承久の乱 日本史のターニングポイント』より #1

2022/02/20

source : 文春新書

genre : エンタメ, 読書, 歴史

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 京都から鎌倉に、文官の藤原俊兼が下ってきます。この俊兼は、頼朝の右筆(文書の代筆などを担当する)を務めたのですが、いつも雅な服を何重にも着て贅沢をしていた。それに対して、ある日、頼朝が怒りを爆発させます。俊兼の着物の袖を切り取って、「鎌倉の武士たちは、お前と違ってみな学問はない。しかし、質実剛健をわかっていて、倹約を心がけている。そして、たくさんの家来を養っているのだ。いざ戦になったら私のために一人でも多くの家来を連れてやってこようとしているぞ。お前も彼らを見習うべきだ」と説教をした。

 質実剛健は鎌倉武士の美徳といわれています。しかし、このエピソードは単なる倹約のすすめではありません。お金をためることが目的ではなく、それを家来を養うことに使え、すなわち少しでも多くの兵力を持つべきだ、と頼朝は言っているのです。そこからは兵士の数こそが正義であり権力の源泉である、という鎌倉武士の冷徹な認識がうかがえます。

規模別有力武士番付

 こうした点を踏まえつつ、有力武士たちを、規模別にグループ化してみましょう。

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 まず、トップグループといえるのが、複数の国にまたがって勢力を伸ばしている「諸国の覇者」です。西国を中心に全国で500あまりの荘園を我が物とした平家一門のトップ清盛や、東国を押さえた頼朝は当然、このグループです。ほかには、信濃にいた木曽(源)義仲や平泉の奥州藤原氏もここに入ります。

 第二グループは「一国の支配者」です。たとえば、頼朝が旗揚げに失敗して房総半島に逃げたときに、その旗下に加わった上総広常。彼は上総国をほぼ丸ごと支配していたといっていい。『吾妻鏡』には2万人の兵を率いていたと書かれています。2万という数字は誇大表現ですが、それだけたくさんの兵隊を動かせる武士であることを示しているのです。ここまでの兵力を動かせたのは、東国では越後国の城氏くらいでしょう。

 この時期には、一国を丸ごと支配している武士はほとんどおらず、多くの武士は国の中の一地域を支配しているだけでした。これが第三のグループ「地域の有力武士」です。前にも述べた武蔵の畠山氏、相模の三浦氏、下総の千葉氏、下野の小山氏などで、動かせる兵力の規模は300人くらい。

 動員規模が50人くらいだった北条時政などは、さらにその下のクラスだったといえます。

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「庭に生首を絶やさず置いておけ」たまたま通りがかった人を弓で射る…自らすすんで“殺生”に手を染めていた“鎌倉武士”の独特過ぎる死生観とは

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