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 残念ながらすべての国の史料が残っているわけではありません。そこで、史料がきちんと残っている国をベースに考えることになります。 

 まずは、西国の小国です。史料を見てみると、讃岐には御家人は20人くらいしかいません。一方、東国の大国で東国武士の本場である武蔵には、鎌倉時代半ばの史料によると、百十数人くらいの御家人が記録されています。史料の残っている国の数字をつき合わせて推測すると、御家人の総数は千数百人と考えるのが妥当でしょう。御家人は、もともと頼朝の家来を意味し、将軍家に直属する人々で、鎌倉武士のなかでもエリート中のエリートでした。鎌倉武士全体となると、数はさらに増えます。

御家人の収入

 では、御家人は、一体いくらの収入を手にしていたのでしょう。ある中級貴族を領家とする荘園の地頭だったと仮定して、考えてみます。中規模の荘園の広さは、だいたい200町くらいあります。1町は1ヘクタールくらいと考えてください。承久の乱の後に、幕府は一つの目安として「新補率法」というものを公表しました。少なくともこれくらいは、地頭が自分の収入としてよい、と認めたのです。それにしたがって計算してみたことがあるのですが(1998年出版の放送大学教科書『日本の中世』)、計算式は省略して結果だけ記すと、200町の荘園の地頭の収入はほぼ2000万円くらいとなりました(なお、お米10キロを6000円として計算しています)。

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 その2000万円を使って、自分の館を維持し、家来を養うことになります。

 調べた限りではこのクラスの収入が見込めるのはその国を代表する武士たちです。武蔵の畠山氏、相模の三浦氏、下総の千葉氏、下野の小山氏がそれにあたります。先ほど紹介した『男衾三郎絵詞』の男衾三郎も、このクラスです。男衾三郎の館には、10人くらいの武士が描かれていますが、彼らがいわゆる中級将校にあたり、その下に身分の軽い兵士が300人くらいいる。関東でトップクラスの武士でも動員できる兵力は、だいたい300人くらいだったといえます。

 武士とお金という点でいえば、「頼朝はケチだった」という説もあります。それはこんなエピソードが残っているからでしょうか。