不倫したら男女とも「死刑」――。粋な町人文化の象徴と思われがちな「色ごと」だが、不義密通はもちろん、婚前交渉ですら奉行所で一旦裁きにかかると死刑や追放といった厳しい刑罰が待っていた。

 江戸時代の名奉行らによって残された大量の裁判記録の中から、男女間の性的な事件・犯罪に対する裁きと仕置をまとめた一冊が、作家の丹野顯氏の『江戸の色ごと仕置帳』(集英社新書)だ。具体的な事例を紹介した本書の一部を抜粋して転載する。

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「密通=不倫」は男女とも死刑だった

「密通」は今風にいえば「不倫」である。江戸時代の密通は意味が広くて、結婚していない相手と性的関係を結べば、すべて密通であった。結婚を望んでいる若い男女が親に隠れて愛し合うのも密通である。

 現在、不倫は離婚の理由にはなるが、刑法で処罰されることはない。ところが江戸時代には、すべての密通ではないが、多くの密通は死刑か追放刑になった。磔(はりつけ)や獄門も珍しくない。しかも幕府による公の死刑だけでなく、次のような私的な処刑も認められている。

(写真はイメージ)©iStock.com

 江戸近郊の堀之内(杉並区堀ノ内)に、キセルの羅宇(雁首と吸い口をつなぐ竹の管)に漆絵を描く職人がいて、その女房が前から密通していた。職人は現場に踏み込むと、男ともども妻を殺害した。その殺し方が凄惨だった。

「両人とも捕らえ、近所の寺内へ連れ行き、間男(まおとこ)をば羅切(らせつ)いたし(陰茎を切り落とし)、女は陰門をくりぬき候よし、然(しか)る所、検使の参り候迄そのまま差し置き候所、いたち、右女のえぐり口へ夥(おびただ)しく付き候よし」(『藤岡屋日記』)

 1820年(文政3)5月のことである。この現場のありさまは尾鰭がついて、たちまち江戸中に広まった。当時、密通は身近に起きているありふれたことだった。現代の不倫と変わらない。妻の密通を夫が知っても、多くは当事者間で内済(示談)になり、こうした私的な処刑に至るのは稀であった。