夫が妻と密通の相手の2人を殺しても「無罪」
キセル絵職人がこのあと、どのような裁きを受けたかは書かれていないが、『御定書百箇条』に従えば、無罪になったはずである。『御定書』には26カ条にわたって「密通御仕置之事」という密通条項がある。右のケースに関係のある条文は、次の4カ条である。
従前々の例
一、密通いたし候妻 死罪
同
一、密通の男 死罪
追加
寛保三年極(きめ)
一、 密通の男女共に夫殺し候はば、紛(まぎ)れ無きにおいては、構(かまい)無し
追加
同
一、密夫を殺し、妻存命に候はば、その妻 死罪
但し、もし密夫逃げ去り候はば、妻は夫の心しだいに申し付くべし
当事者が示談で解決することも
密通すれば男も女も「死罪」であるから厳しい。「従前々の例」とあるのは、『御定書』が制定される前からの判例ということである。さらに密通が「紛れ無き」(明白な)場合には、夫が妻と密通の相手の2人を殺しても「構無し」(無罪)とある。キセル絵職人はこの3カ条目によって無罪だったはずである。ただし、殺生禁断である寺の境内に連行して殺した点、また2人がいくら憎いとはいえ局部を切り取るという残酷な殺し方をした点については、町奉行から何らかの咎めがあったかもしれない。
この冒頭の3カ条から、密通した男女は公刑によっても、私刑によっても、死をもって償わされたことがわかる。ただし、幕府は密通の当事者が示談で解決することも認めていた。現実に密通した妻と密夫を2人そろって殺すこと、いわゆる「重ねておいて四つにする」のは、刀を振りまわすことのない庶民には容易なことではない。
多くの密通事件は示談で解決された。これについては後述する。示談ではすまなかった、さまざまなケースが裁判記録に残されている。
実際に、妻と男を斬り殺した夫のケース
この「密通した男女を殺しても無罪」という条文には「追加 寛保三年極」とある。『御定書百箇条』は前年の1742年(寛保2)3月27日に一応完成したが、この条文はその後に新事件が起きて、寛保3年に追加された条文という意味である。その事件は、1742年4月に下野(栃木県)上南摩村で起きた。
百姓喜右衛門が夜ふけに家に帰った。女房と子供は寝ており、真っ暗な中を手探りで進むと、男物の帯が手にふれた。目が慣れてよく見ると、悴(せがれ)を端に寝かせて、女房せきが同村の五右衛門と頭を並べて寝ていた。喜右衛門は2人が密通していたに相違ないと思い、2人そろって切り殺した。取り調べの結果、密通していたのは間違いなかった。喜右衛門は当然ながら無罪となった(『徳川禁令考』後集)。