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 これは当時の一般的な常識とも異なる、武士だけの特異な感覚だったといえます。死をケガレとして極度に厭い、死を連想するものさえ極力避けるのが、貴族の普通の感覚でした。だから平安期には政争の敗者でも死刑になったケースはきわめて稀です。またいわゆる平民である百姓層にも殺生を避ける仏教の教えが浸透しており、彼らから見ても、すすんで殺生に手を染める武士たちは異質の存在でした。

 中世武士の自力救済とは、生きるためには他人の命を奪うことなどなんとも思わないという荒々しい感覚に基づくものでもありました。鎌倉幕府の血なまぐさい権力抗争は、こうした武士の殺生観を踏まえると、よく理解できるでしょう。

弓と馬術こそ武士の象徴

 とはいえ、単に荒くれ者というだけでは武士にはなれません。「俺は力も強いし、家来もたくさんいる。よし、今日から武士になるぞ」と勝手に武士になることはできませんでした。周りから武士と認められるには、ある能力、資格を示す必要がありました。

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 10世紀ころ、各国の国衙(編集部注:役所が置かれていた区画)では、国司(編集部注:政務を行った地方官の総称)が任期の間に一度「大狩」という行事を催すことになっていました。そこに正式に招待されて一緒に狩りを行うことのできる在地領主が武士だと認定されたのです。

 この大狩は単なる遊びやスポーツではありません。当時の人々にとって狩りは神事です。国司は、「今度、私がこの土地を治めることになりました。どうぞ、よろしくお願いします」と土地の神々に獲物を捧げることが本来の目的でした。またこの行事に参加するということは、国衙への奉仕を求められるということでもありました。ときには国司に仕え、下級の官位(6位くらい。有力者だと5位のこともあった)を与えられるケースもありました。

 まずこの大狩に参加するには、馬を乗りこなせなくてはなりません。広い荒野を駆けまわって獲物を追いかけるのですから、高度な乗馬技術が要求されます。さらに、矢を射る技術も必要とされます。

 馬と弓。これはいうまでもなく、当時の軍事力の要でもありました。戦においても馬の攻撃力は圧倒的なものがあります。合戦の記録を読むと、戦国時代になっても、戦死の理由として、鉄砲の次に、馬に踏まれて死ぬことが挙げられています。いわば、近代戦における戦車のような破壊力を持っていたといえるでしょう。