最近では、馬は単なる移動手段で、合戦の際には降りて戦ったという説もありますが、これは普通に考えたらおかしな話です。馬そのものが強力な武器だったのですから。
また鉄砲以前において、離れた距離から相手をしとめる最大の兵器が弓でした。神社などで行われる流鏑馬を思い浮かべると分かりやすいと思いますが、馬を疾走させながら、獲物に向かって矢を放つあの姿が、本来の武士の姿なのです。
後世、武士といえば刀というイメージが強くなりましたが、刀が武士の象徴となるのは、実戦から遠ざかった江戸時代のことです。それ以前の戦国時代には、「賤ヶ岳の七本槍」「一番槍をつける」など、戦場ではむしろ槍のほうが有効な武器とされていました。刀はよほどの接近戦にならないと出番はありません。
鎌倉武士にとっては、なんといっても弓こそが武士の象徴であり魂だったのです。武士を褒め称える言葉として、「海道一の弓取り」とはいわれても、「海道一の刀使い」とは呼ばれません。『平家物語』でおなじみの那須与一や、強弓使いとして源為朝が後世まで語り継がれるのもそのためです。荒武者のイメージがない源頼朝も、『吾妻鏡』では弓の名手として紹介されていて、武士の鑑であることが強調されています。
御家人は一体何人いたのか
では、ここから鎌倉幕府の実態に迫ってみたいと思います。まずは最も基本的な数字から。
以前、東大に来ていたウェイン・ファリスさんという東洋史学者に、「御家人というのは、一体何人くらいいたのですか」と聞かれたことがあります。実は、この質問、当時の中世史学者の間では一種のタブーだったのです。なぜなら、御家人の人数の全国統計などという史料が存在しないからです。といっても、「わからない」と答えるわけにもいきません。あらゆる史料を集めて、可能な限り御家人の人数を試算してみました。