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頼朝が最も信頼した比企氏

 北条氏といえば、頼朝の正室、政子の実家ということもあり、頼朝が最も信頼を寄せ、後事を託した最側近と思われている方も多いかもしれません。しかし、それは『吾妻鏡』によって巧妙に作られたイメージの部分が少なくないのです。

 頼朝、頼家二代の将軍から実力者として重用された人物としては、梶原景時(?~1200)が挙げられます。そして、頼朝が最も信頼を寄せた一族は比企氏でした。先回りして言えば、この梶原、比企の両氏を謀略によって滅ぼすことで、北条時政は幕府の主導権を握ったのです。

 では、鎌倉幕府のなかでも重臣中の重臣だった比企氏について説明しましょう。

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 後世のイメージに反して、鎌倉時代は女性の地位が高い時代でした。それを端的にあらわすのが、母、乳母の発言力が非常に大きいことです。頼朝が助けられたのも、清盛の継母、池禅尼の嘆願によるものでした。

 確認されているだけでも頼朝には4人の乳母がいましたが、その1人が武蔵国の有力武士比企氏の女性、比企尼でした。頼朝は彼女にとても懐きました。比企尼が偉かったのは、平家に追われる境遇となってからも頼朝を以前と変わらず可愛がり、支援し続けたところにあります。頼朝少年が伊豆国に流されると、それまで京都に暮らしていた比企尼は嫁ぎ先の武蔵国の比企郡に戻りました。そこから彼女は、頼朝のもとに生活物資を送り続けたのです。

 これは、単なる仕送りというにはあまりに危険な行為でした。当時は平家の全盛期です。平家の敵である源氏の御曹司を支えているということで、下手をすると謀反人だと疑われて殺されることもあり得るのです。

 さらには3人の娘婿も頼朝を支えました。比企尼の長女は丹後内侍。その夫の安達盛長は、流刑時代の頼朝の唯一の従者でした。頼朝は、2人の娘を、弟の源範頼の妻とします。源氏と深い縁で結ばれた安達氏は、鎌倉幕府の重鎮としてその後も繁栄します。

 次女・河越尼は、「武蔵随一」と称えられた御家人・河越重頼に嫁ぎました。この2人の間に生まれた娘は、やはり頼朝の命で、義経の正室になっています。ただし不運なことに、河越重頼は義経追討に連座するかたちで頼朝の責めを受け、誅殺されてしまいました。そもそも義経と縁付けたのは頼朝なのですから、私たちから見ると理不尽なようにも思えますが、同時代の武士たちは当然のことと捉えている。この時代、結婚によって生じる結びつきはそれだけ重いものだったのです。たとえばある家が幕府に対して謀反を起こしたら、その家から嫁をもらった武士もいっしょに幕府と戦わなければなりません。娘を誰と結婚させるかは究極の人事でもあり、同盟の締結でもあったのです。ちなみに、重頼なきあとの土地は、頼朝の安堵により、河越尼が切り盛りしました。