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 比企尼の三女の夫、伊東祐清も、伊豆時代の頼朝を世話した武士でした。しかし、祐清は主君である平家の側について戦死します。未亡人となった比企尼の三女が、やはり頼朝のとりもちで再婚した相手が、源氏一門の最上席である平賀氏当主の平賀義信(1143~?)だったのです。この平賀氏は承久の乱で非常に重要な役割を果たしますので、覚えておいてください。

 さらに比企氏と頼朝一家との結びつきは強くなっていきます。

 比企尼の次女と三女が頼朝の嫡男頼家の乳母になったのです。頼家は実母の政子のいる館ではなく、比企の館で育てられました。頼家は母の実家である北条氏よりも、比企氏に親近感を持つ将軍となります。

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 また頼家は、比企氏の当主で比企尼の甥といわれる比企能員(?~1203)の娘、若狭局を妻にしました。若狭局は、一幡という嫡男も生みます。つまり頼朝を不遇時代から支えた比企氏は、二代将軍頼家の育ての親となり、さらには次代の将軍候補の外戚でもある、という最強のポジションを占めていたのです。

 逆に言えば、頼朝は最も信頼している比企氏を、何重にも頼家と結びつけることで、頼家の政権基盤を磐石のものにしようとしたのでしょう。

「十三人の合議制」という政変

 これに対して、北条時政はどんな手を打っていったのでしょうか。

 頼家が家督を継いで3カ月後の建久10(1199)年4月、幕府は13人の有力者による合議制を導入します。

〈様々な訴訟については、羽林(源頼家)が直に決断されることを停止し、今後は大小の事については〉13人が話し合って処置すること。〈その他の者が理由もなく訴訟のことを(頼家に)取り次いではならない、と定められた〉(『吾妻鏡』建久10年4月12日)

 これは権力の本質を見る上で非常に面白いので、詳しく見ていくことにしましょう。

 時政ら13人は権力を握りましたが、新しい政権を作るのではなく、将軍である頼家の存在は否定しませんでした。つまり、武家のトップであることを辞めさせはしなかったのです。