いまから30年前のきょう、1988(昭和63)年1月12日、奈良国立文化財研究所(現 奈良文化財研究所)が、平城宮跡の南東隅にあたる地点(奈良市二条大路南)で出土した木簡から、そこが奈良時代初期の皇族政治家・長屋王の邸宅跡であることが判明したと発表した。
長屋王は、天武天皇の子・高市(たけち)皇子の長男で、平城京遷都以来、政界の中心だった右大臣・藤原不比等(ふひと)が720(養老4)年に死ぬと、皇族の代表として主導者となり権勢を誇った。だが、やがて不比等の子である藤原4兄弟と対立し、729(神亀6)年には、謀反の疑いから藤原宇合(うまかい)らに邸宅を包囲され、自害に追いこまれてしまう(長屋王の変)。この変については、聖武天皇の皇位継承をめぐる問題を主な原因として起こったとする説が有力である。
邸宅跡と判明した場所では、1986年より発掘調査が行なわれ、出土した木簡は3万点を超えた。これらは長屋王家を支える家政機関に集まったもので、その内容からは、従来の文献史料ではわからなかった王侯貴族の家のなかの人や物の動きが具体的にあきらかとなる。そのなかで、長屋王家は、平城京に近い畿内の各地に所有する「御田(みた)」「御薗(みその)」と呼ばれる私有地から、毎日のように米や野菜を進上されていたこともわかった。ここで浮き彫りとなった王族の私有地の実態は、646(大化2)年の大化改新詔(みことのり)で示された公地公民制にもとづく律令体制が、701(大宝元)年の大宝律令の制定により完成にいたったとする従来の定説に対し、再考を迫るものであった(『週刊 新発見!日本の歴史 11号 奈良時代1』朝日新聞出版)。
なお、長屋王邸跡が確定された発掘調査は、百貨店建設予定地で行なわれたもので、調査後の1989(平成元)年には、当地に予定どおり百貨店「奈良そごう」が開店、記念碑が設置された。その後、そごうグループの経営破綻にともない同店舗は2000年に閉店し、03年には同じ建物にイトーヨーカドー奈良店がオープンした。しかしこれも昨年9月に閉店、現在改装工事が進められ、今春には奈良平城プラザ(仮称)という観光型複合商業施設としてリニューアルオープンする予定である。