江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗は、享保6(1721)年、町人や農民などの意見や提案を受け付ける目安箱を設置した。翌年の正月、この目安箱に、町医者の小川笙船(しょうせん)が貧民救済のための施薬院を設置してほしいと投書する。これを受けて幕府は同年末、享保7年12月4日に小石川薬園内に「養生所」を開設した。その日は西暦でいえば1723年1月10日で、いまから295年前のきょうにあたる。
養生所開設に際しては、提案者の笙船が肝煎(監督)に就任、2人の本道(内科)医師がついた。対象となったのは、極貧の病人、独身で養生できない者、あるいは一家皆病気の者で、町奉行の検査を受けた上で、無料での治療が許された。入所者は生活を扶助され、食料のほか衣類や薪なども支給され、また自宅から治療に通うことも認められていた。
こうした待遇に加え、入所手続きも開所からまもなくして簡略化されたにもかかわらず、町名主など養生所へ送る立場の人が面倒を嫌ったこともあり、当初は入所する患者は少なかった。そこで幕府は、江戸中の名主に、養生所を見学させ、その内容について詳しく説明し、病人を積極的に送るよう指導。こうした努力の結果、患者はしだいに増え、ついには入所待ち申込者が常にいるという状態にまでなった(竹内誠『大系 日本の歴史 第10巻 江戸と大坂』小学館)。
養生所の年間経費は当初750両、のち840両と定められ、幕府の予算と拝領地からの収入で運営された(『週刊 新発見!日本の歴史 32号 江戸時代5』朝日新聞出版)。このあと養生所は明治元年(1868年)に廃止されるまで、じつに140年以上も存続することになる。
小石川養生所といえば、山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』(1959年)および同作を原作とした黒澤明監督の映画『赤ひげ』(1965年)の舞台としても知られる。これら作品では、「赤ひげ」と呼ばれる養生所の所長・新出去定(にいできょじょう)に、長崎帰りの若い医師・保本登が最初は反発しつつも、しだいに感化されていくさまが描かれ、映画では両者を三船敏郎と加山雄三が演じた。山本周五郎の没後50年を迎えた昨年には、NHKのBSプレミアムで『赤ひげ』が船越英一郎と中村蒼の出演によりドラマ化されている。同時期に地上波で放送された『ドクターX~外科医・大門未知子~』や『コウノドリ』といった医療ドラマとくらべれば、やや渋い印象ながら、貧困や老人の認知症など現代にも通じる問題をとりあげ、21世紀ならではのリメイクを企図した意欲作であった。