歴史とフィクションは、根本的に異なるが、両者を混同する向きが後を絶たない。司馬史観などが、その最たるもの。わが国の歴史を振り返ると、司馬史観の先祖をいくつも見出せるが、平家物語史観ほど広範な影響を与え続けたものはそうそうあるまい。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で始まる名文は、都で贅沢三昧に耽る平家と、東国で臥薪嘗胆に耐え忍ぶ源氏という明確で分かりやすい対立軸を提示した。この構図は、武士は都の貴族に対する地方在住の変革者であるという「在地領主論」と符合して一世を風靡した。しかし、研究が進むにつれ現在では、武士の起源は都の京武者とする「職能論」が有力だ。平家の方が本来の武士らしいのである。このように、歴史は、自然科学同様に、日々新しい事実が発見され真実に近似していく学問だ。本書は、現在の歴史学が到達した地平から、蘇我馬子に始まり羽柴秀吉に至る三十一名の人物を取り上げ、「歴史の常識のベールを剥ぎ取って」彼らの人間像の真実を取り戻そうとした意欲的な試みである。
まず、天智天皇と天武天皇。乙巳の変の中心人物は本当に天智だったのか。むしろ孝徳天皇ではなかったか。天智が殺害を強く望んだのは天武だけではなかったのか。このような立場に立つと、天武は空前絶後の簒奪王ということになる。
聖武天皇は、自分の都合でしかものを見ない独善的な支配者だ。藤原道長は、栄花物語史観によって徳を備えた人物として造形されてきたが、自家の繁栄のためには手段を選ばない大不忠の人だった。ベンチャー企業の経営者を彷彿させる平清盛と大企業の経営者に似た源頼朝。平家が旧くて源氏が新しいという単純な図式では全くない。無邪気すぎた源義経は、頼朝に利用されつくして自滅した等々、学校で教わった歴史の常識が粉々にされると、かえって、「本物の歴史をもう一度勉強し直してみたい」という意欲がふつふつと湧いてくる。惜しむらくは、持統天皇や光明子など古代の男性顔負けの女傑が選に漏れていることだ。
後醍醐天皇は、自己主張が強く、自身の存在を誇示するような失政・悪政がさらなる混乱を招いた。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(信長)、鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス(秀吉)」という句が人口に膾炙しているが、実際は秀吉の方が冷酷無慈悲に粛清を繰り返している。
歴史は勝者によって都合よく語り継がれ、負の側面は容赦なく捨象される。しかし、生身の人間には善悪両面が常に同居している。人間は、皆がダース・ベイダーだ。そこに歴史を学ぶ面白さと醍醐味がある。本書はシリーズ全六巻の第一巻。全巻の完結が待たれてならない。