先週、上海出張から帰ってきた友人がこんな話をしていた。夕刻、街の土産物屋で人民元を出したら、店の人が「今日初めて現金を見た」と驚いていたというのだ。今、中国の都市部ではあらゆる支払いでスマホを使った電子決済が主流になっている。支払いの景色をガラリと変えたのはアリババ・グループの「アリペイ」とテンセント・グループの「ウィーチャット・ペイ」。先行したアリペイをウィーチャット・ペイが猛然と追い上げている。
スマホを持つ中国人は普通の通話機能や電子メールをほぼ使わない。代わりにテンセントの無料通話サービス「ウィーチャット」を使う。
テンセントは日本ではあまり知られていないが、そのこと自体、世界の現実を直視できてない日本の現状を象徴している。同社は04年から香港株式市場に上場しており、株式時価総額世界6位の巨大企業だ。
昨年11月20日、テンセントの時価総額はアジア企業として初めて5000億ドル(約56兆円)を突破。翌日には瞬間的にフェイスブックを抜いて世界5位に浮上した。同社株は昨年1年で2倍に跳ね上がり、アリババを上回る。ちなみに日本最強のトヨタ自動車の時価総額は2000億ドルで世界40位前後だ。
日本の新聞はウィーチャットを「中国版LINE」と表記することが多いが実態は違う。確かに始まりはLINEと同じ無料通話アプリだったが、電子決済、ゲーム、動画配信などあらゆる機能を兼ね備えた中国人の生活基盤になっており、利用者数は9億8000万人にのぼる。
ゲーム一つをとっても、昨年大ヒットした「オナー・オブ・キングス」を含むテンセントのゲーム事業の収益は世界一であり、任天堂、ソニーをはるかに上回る。
この「おばけ企業」を創業したのが馬化騰(ポニー・マー)。1971年生まれの46歳。中国のネット上では「小馬兄」と呼ばれている。改革開放の玄関口である深圳市で市の航運総公司の総経理(社長)だった馬陳術氏の息子という、恵まれた環境で育った。
大学で情報工学を学んだポニー・マーは1993年、深圳の通信企業、潤迅通依発展有限公司にソフトウェアエンジニアとして入社。1998年に会社を辞めると、4人の友人とともにテンセントの前身となる騰依計算机系統有限公司を立ち上げた。翌年には地元の通信会社、深圳電信と開発した中国語版のパソコン向けインスタントメッセンジャー「QQ」のサービスを開始。さらに中国聯通と提携して同サービスをスマホに移植する。ウィーチャットの原型と言える「移動QQ」の誕生だ。テンセントは2001年までに、国内各省市の事業者と提携関係を結び、中国全土を覆う巨大ネットワークを作り上げた。
テンセントが全国区の企業として名乗りを上げた2000年代半ば、中国のネット市場は群雄割拠の時代だった。中国政府がグーグル、フェイスブックなど海外の強力なネットサービスの流入をせき止めている間に、検索エンジンの百度(バイドゥ)、新浪(シナ)、網易(ネットイース)、アリババなどが入り乱れて14億人の巨大市場を奪い合った。
ポニー・マーは周到な準備と素早い行動で生き残った。用心深く、メディアに滅多に登場しないが、株式時価総額が1000億ドルを超えた2015年頃のインタビューでこう語っている。
「本当に恐ろしいことです。もし上手く行かなければ、市場価値は何ポイントも下がります。続けて下がっていきます。まさにまだ暖かさの残る死体……」
貧しさから這い上がったリーダーは概ね楽観主義である。大学の英語講師から身を立てたアリババ創業者のジャック・マーが典型だ。大言壮語を繰り返し、圧倒的なバイタリティでその言葉を具現化していく。
豊かさの中で育ったリーダーは悲観的だ。ポニー・マーは変化の激しいネットの世界で、たった一つのミス、ささやかな驕りが、致命傷になることを知っている。ライバルのミスを見逃さず、そこを的確につくことで、のし上がってきた。
偏執的とも言える用心深さは、往年のビル・ゲイツを思わせる。彼もまたマイクロソフトを脅かす新興勢力の台頭に神経を尖らせ、執拗なまでにライバルを叩き潰してきた。豊かな中国が育んだ小心な革命家。ひょっとしたら世界を変えるのはこんな意外な男なのかもしれない。