毎日、殴られては死ぬことしか考えられない日々を過ごしていく中で「このままでは本当に殺されてしまう」と思った私は、泣きながら母親に「生活費もすべて自分で賄うから、どうか家から逃げさせてほしい」と懇願した。そのたび、母親は激昂して「あんたはいいよね、ここから逃げられるんだから」と私を罵り、私を地獄に縛りつけようとした。
「もしこの家から逃げるなら金輪際、学費の入金は止める。本気で逃げたいなら、あんたが大学を辞めたら考えてやってもいい」と言った母親は、きっと、同じ地獄を共有する私が自分の元から去ることを極度に恐れていたのだと思う。
「自分の今も、将来も、両方守ろうなんて都合が良すぎるのよ。それは欲張りすぎる。本当に今が辛いなら、将来のことなんて捨てられるでしょう?」
そう言った母親の顔を、声を、あのとき感じた絶望を、私は死ぬまで一生忘れることはないと思う。
虐待された子供たちが教育を制限されるのは「仕方ないこと」?
虐待された子供たちが大学に進学したいと思うことは、贅沢だろうか。
誰でも手に入れているような「普通の幸せ」が欲しいと思うことは、そんなにも身分不相応だとして認められないものなのだろうか。
数百万円の借金を作ってようやく大学に入学できたのに、体を壊してしまったら自己責任で、その場で自分の将来の可能性を捨てなくてはならないのだろうか。
だとしたら、虐待被害を持つ子供たちが貧困に陥らず、自分自身で食い扶持を稼ぎ続けることはあまりにも過酷であり、あまりにも救いがなさすぎるのではないか。
現在、厚労省では大学生の生活保護の受給等に関して、5年に1度の審議会で検討が行われているが、まだ制度見直しの見通しは立っていない。厚生労働大臣においては、より慎重な姿勢でこの問題に向き合って欲しいと思い、今回筆を執った。生まれついた家庭によって人生に制限が生じるようなシステムや福祉制度が、今後少しでも変わっていくことを願う。