日中戦争の勃発から初めて年明けを迎えた1938(昭和13)年1月、落語家や漫才師による戦地慰問演芸団「わらわし隊」が結成された。1月15日には、わらわし隊のうち北支那慰問班が、下関より中国・大連に向けて客船「扶桑丸」で出発した。いまから80年前のきょうのできごとである。これに続き、翌16日には中支那慰問班も長崎から上海に向けて出発した。中支班出発は奇しくも、当時の近衛文麿内閣が「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を出し、中国・国民党政府との和平交渉を打ち切った当日にあたった。
わらわし隊は、東京朝日新聞社と大阪朝日新聞社の企画に、吉本興業が協力して実現したもので、このころ日本軍の航空隊が「荒鷲(あらわし)隊」と呼ばれていたのをもじってつけられた。第1回派遣では、北支班に柳家金語楼、花菱アチャコ・千歳家今男、柳家三亀松、京山若丸(曲師・中川八重子)、仲沢清太郎、中支班に石田一松、横山エンタツ・杉浦エノスケ、玉松一郎・ミスワカナ、神田ろ山と当代の人気芸人が名を連ねた。中支班には、のちの吉本興業社長・林正之助も監督役として参加している。
北支班を乗せた扶桑丸の出港の際には、こんなエピソードも残る。動き出す船に向け、埠頭では万歳の連呼とともに軍歌「露営の歌」の合唱が始まり、船上の金語楼たちも感激して一緒に歌った。だが、これに見送りに来ていた朝日新聞の社員たちは慌てる。なぜなら「露営の歌」は、朝日のライバル社である大阪毎日・東京日日の両新聞社(現在の毎日新聞社)が懸賞で選定した歌だったからだ。朝日の社員たちは、合唱を止めようと、持参の社旗を激しく横に振ったものの、わらわし隊の一行はそれを激励の意味にとったらしい(早坂隆『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』中公文庫)。
わらわし隊は危険な第一線にも赴きながら各地で歓迎された。その後、中支班は2月13日、北支班は16日に帰国し、19日からは全国で凱旋公演も行なわれる。わらわし隊はその後も1938年11月には第2回、12月には第3回とたびたび結成され、戦地を回った。
「あの頃は私の絶頂の頃でしたでしょうな」
わらわし隊の派遣は、吉本側が1933年に満州(現在の中国東北部)に慰問隊を派遣した経験から、朝日新聞に働きかけたものだともいわれる。すでに吉本社内で実権を振るいつつあった林正之助は後年、「劇場もそれなりに赤字も出さずに順調だったし、慰問は喜ばれるし、あの頃は私の絶頂の頃でしたでしょうな」と当時を振り返っている(竹本浩三『笑売人・林正之助伝』大阪新聞社)。折しも現在放送中のNHKの朝ドラ『わろてんか』では、初期の吉本興業をモチーフにとりあげているが、戦時中の慰問隊の話は出てくるのだろうか。