天才落語家・立川談志が「真面目さ」を美徳としないのには深いワケがあった――談志の弟子にして、落語立川流真打である立川談慶氏の新刊『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方』の一部を抜粋。

 なぜ真面目に生きるだけではダメなのか?(全2回の1回目/後編を読む)

落語家・立川談志師匠 ©️文藝春秋

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「不幸だと愚痴る生真面目さは、視野が狭い証拠」

 自分は何で不幸なんだろう……。

生活に困っているわけでもなく、周囲からの評価も決して悪くはない。はたから見ると、そんなに不幸でもないのに、そう嘆く人がいます。そういう人に限って、根が真面目な人が多いようです。

 立川談志は、よく「不幸だと愚痴る生真面目さは、視野が狭い証拠」と言っていました。

 落語には真面目な人間はあまり出てきません。出てきたとしても、その真面目さを揶揄する対象として扱われます。

 なぜ落語では真面目さを揶揄するのか。落語というのは、いえばわれわれの人生をカリカチュアした話芸です。つまり、「真面目すぎると窮屈で生きられないよ」ということを伝えていると解釈できる芸能です。

 多くの落語の時代設定になっている江戸時代のコミュニティーは、実は現代と同じように、いや現代以上に非常にストレスフルな社会でした。

 江戸時代は着物も紙もボロボロになるまで使いつくすリサイクル社会だったといって、何かといま流行りのSDGsの引き合いに出されます。「江戸時代を見習おう」というわけです。しかし、実はとんでもない話です。

 江戸時代、町人が生活していたのは裏長屋です。裏長屋の広さは、一般的に間口が九尺(2.7メートル)、奥行きが二間(1.8メートル)。ここに親子4人で暮らす。狭くて息苦しいうえに壁が薄くて話は隣に筒抜けでプライバシーなんてありません。いくら私が落語家だからといって、「長屋で生活したいか」と聞かれたら、答えは「NO」です。日本が近代化に舵を切った背景には、この裏長屋での生活に嫌気がさし、その蓄積が時代を動かすパワーになったからではないかとさえ思います。