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「不幸だと愚痴る生真面目さは、視野が狭い証拠」立川談志が語った“真面目に生きること”の弊害

『武器としての落語』 #1

2022/11/12
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 たしかにモノを無駄にしないとか必要以上にお金に執着しないとか、江戸っ子の生き方や考え方には学ぶべき点はあります。だからといって現代人が江戸時代の住環境や生活様式を真似たら、そのストレスフルな生活に数日で音を上げるでしょう。

 とにかく江戸時代の庶民の生活は尋常ではないほどストレスフルだったと思います。そのストレスが充満している中では、とても生真面目に生きていくことなどできなかったのではないかと思います。

©️文藝春秋

 江戸っ子は気が短くて喧嘩っ早いといわれます。頭にきたらぱーっと喧嘩をする。しかし、それをいつまでも根にもつことはない。「火事と喧嘩は江戸の華」と都合よく言い訳をして、翌日にはけろっと忘れてしまうくらいの精神力でないと生きていけなかった。お互いがそのように緩和し合ってガス抜きをするという生活の知恵を生み出していたといってよいでしょう。

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 江戸時代にストレスという言葉はありませんが、お互いが精神的にギリギリのところで生きているのはわかっているから、「怒りたきゃ怒れよ」「明日まで引っ張らなきゃ怒っていいよ」というような感情の処理方法を生み出し、落語はそれを笑いに転嫁したのだと思います。

 ものごとには「ほど」というものがあります。真面目さも度を越して生真面目になると視野狭窄に陥って、自分で自分を窮屈にさせることになりかねません。もし自分は不幸だ、恵まれていないと感じているなら、周囲と比較したり、それこそドローンのような高い視点から自分を客観視してみることです。そうすると案外「いけている自分」が発見できるものです。

「卑屈になったら下を見て、傲慢になったら上を見ろ」

「卑屈になったら下を見て、傲慢になったら上を見ろ」と言った人がいます。これも一種の「客観視のすすめ」だと思います。

 落語には基本的に生真面目な人間が出てこないというのは、自分の傍に生真面目な生活スタイルの人がいると、「かえって迷惑」という考えがあるからかもしれません。無論「井戸の茶碗」などの例外はありますが、あの噺も生真面目人間をカリカチュアして笑いに変えています。実際、生真面目な人が近くにいると、息苦しいものです。真面目であることを否定はしませんが、やはり「ほど」が重要ということでしょう。
 

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

「不幸だと愚痴る生真面目さは、視野が狭い証拠」立川談志が語った“真面目に生きること”の弊害

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