市川海老蔵改め市川團十郎(44)による十三代目市川團十郎白猿襲名披露興行が11月7日、東京・歌舞伎座で幕を開けました。「文藝春秋」2022年11月号より、松井今朝子氏による「市川團十郎を十三倍楽しむ」を一部公開します。

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襲名にはどんな意味が?

 のっけに私事を書いて恐縮だが、高三の頃に父親が父祖の名前を襲名したおかげで大迷惑をこうむった覚えがある。当時は戸籍の改名がすぐに住民票等へ反映されなかったため同一人である証明が困難となり、大学に進学した際はあらゆる保証人を母にしなくてはならなかったのだ。以来、同じ名前を受け継ぐことにはどんなメリットがあるのかを気にするようになった。

 調べたところ、日本では十八世紀後半の江戸時代中期から町人の襲名が急増している。詳しくは書かないが、どうやら苗字を持たない町人が役所に相続等の届け出をする際に有利だと考えられたらしい。ことに養子の場合がそうだった。

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 ところで親の財産や取引先をすんなり受け継げて便利な商売人はともかく、あくまで個人の魅力を売り物にする芸能人の襲名には一体どんな意味があったのだろうか?  今は古典芸能だから箔が付くと思えても、まだ歌舞伎が時代の最先端を行く十七世紀半ばに早くも中村勘三郎の二代目が誕生するのはなぜだったのか? 彼の場合は俳優というよりも幕府から興行権を得た座元として、許認可の継続に有利だったと考えられる。

 では興行権を持たない役者の場合はどうか? 十七世紀末の元禄時代に上方の名優として知られた坂田藤十郎の二代目は初代と全く無縁な単なるそっくりさんで、つまりは故人を追慕するファン目当ての興行的な手口だったといえる。

 片や同時代の江戸で人気沸騰した市川團十郎の二代目は実子だが、これも当初は親父のそっくりさんで売りだしていたようだ。しかし幸いこの人は父親のエピゴーネンでは終わらなかった。さらにこの芸名を受け継いだ代々の役者に傑出した名優が多かったため、結果として歌舞伎界の特別な「名跡」と意識されるようになったのであろう。

名跡は「株」

 商家の襲名が多くは実子よりも優秀な養子で続いて行ったように、役者の名跡も実子だけで江戸時代から今日に延々と続く例は皆無といってもいい。名跡は業界での存在価値を担保する「株」のようなものと考えられて、名乗る者に力量がないと名跡自体が消滅する一方で、有望な役者が無縁な名跡をぽっと引き継いだ例も多々あるのが現状だ。そんな中で代々の團十郎は襲名の経緯において比較的正統と見なされてきたことが、この名跡の価値を高めてもいるのだった。

 それにしても京都出身の私がこうして江戸を代表する役者について書くのは我ながら妙な感じだが、そこには故十二代目團十郎丈との御縁を考えないわけにはいかない。

十二代目

 江戸中期の役者を主人公にした拙著『仲蔵狂乱』という時代小説が二十年ほど前にテレビドラマ化された際、出演者だった故人から制作発表記者会見の直後に「次はうちの初代を小説にしませんか」と勧められた時はまるでぴんと来なかった。ところがその後なぜか團十郎の代々について講演する機会が二度もあったおかげで、なまじっかな芝居よりドラマチックな初代の実人生を史料で押さえつつ真っ向から取り組んだ時代小説は、ふしぎとこれまで皆無であることに気づいたのだった。


 かくして二〇二〇年の四月には故人のお勧めを拙いながらもやっと果たせた思いで『江戸の夢びらき』を上梓。初代團十郎が歌舞伎に果たした大きな役割を、改めて世に問うてみたつもりだ。

 詳しくはそちらをお読み戴きたいが、初代を端的に紹介するとやはり「荒事」の創始者ということになろう。今日にもよく知られた「暫(しばらく)」や「鳴神(なるかみ)」の原型を創った人物であり、十四歳の初舞台で全身を真っ赤に塗って坂田金時を演じたのが荒事の始まりだとされている。

 当時は金太郎の名でお馴染みの金時の息子金平(きんぴら)が仲間と共に悪人退治に活躍する、戦隊ヒーロー物の走りのような人形劇が大流行していた。ちなみにそれは荒っぽくて騒々しい人形劇だったので、きんぴらごぼうの語源ともされている。

 初代はその人形劇を歌舞伎に取り込むことで子役スターとして出発したと考えられているのだ。つまり人形劇によく見られるようなスーパーマン的な人物を歌舞伎の舞台に登場させたのが荒事といっていいのだろう。ただし主人公を『曽我物語』の曽我五郎のように怨み死にした人物に設定したケースが多いので、民俗学的には御霊信仰と関連づけられてもいるのだった。

「江戸の夢びらき」(文春文庫)

初代は劇場で刺殺

 初代は幼名を海老蔵といったらしく、芸名は市川段十郎を名乗り始めて途中で「團」に改字し、芸歴を着実に重ねてついには江戸随一ならぬ「随市川」と称される抜群の人気役者となった。それが人気絶頂の四十五歳にして上演中の劇場で一座の役者に刺殺されるという衝撃的な最期を遂げ、江戸庶民の強烈な記憶として留まったのである。

 同僚に殺されたと聞けば本人が何か恨まれるようなことでもしたのかと想像されるが、当時の史料を見ると意外なほど謹厳な人格者だったようで、犯人は逮捕直後に獄死したから事件の真相はまさにミステリー。ともあれ彼は名優であるばかりか文才に長け、升を三つ重ねた自分の定紋に因んだ三升屋兵庫の筆名で、相当に難解なセリフのある台本を書くインテリだったし、次々と斬新な演出も編みだしていた。

 今日に残る台本のあらすじは人間の内面にある善と悪のせめぎ合いを穿ったようなストーリーが多くて、そこには仏教思想の反映が見て取れる。また父親の郷里に近い成田山新勝寺の不動尊信仰が篤かったところから、成田屋の屋号が生まれた。

 二代目は九蔵という幼名で舞台に出て父親そっくりの身ぶりをする、これまた名子役としてスタート。父の横死により十七歳で二代目を襲名し、周囲の引き立てで早くから人気役者になるが、父より小柄で童顔だったから、父の創造した荒事をするには多少迫力に欠けたところもあったようだ。代わりに荒事をスタイリッシュにした人物といってもよく、今日に歌舞伎の表徴のように見られる隈取は彼の時代に考案されたものであった。

 父より得意だったのは立板に水のセリフ術であり、この人が初演した「外郎売(ういろううり)」の早口言葉は今日に声優さんの滑舌練習にも使われている。和かみのある芸風でもあったから、上方で流行った心中物を取り込んで『曽根崎心中』の主人公徳兵衛が実は曽我十郎だとする奇妙なドラマ『曽我崎心中』なども上演し、その手の最大のヒット作が「助六」だ。これは京で上演された心中物の主人公助六と揚巻の人物名を拝借して、江戸の吉原に登場する侠客姿の助六が、実は曽我五郎だという寛闊な舞台に仕立て上げたものである。自らもまた上方に赴いて、大坂の舞台で大好評を博したのが今日にもポピュラーな「毛抜」であった。

 二代目は七十一で亡くなる年まで舞台に立って、江戸の劇壇に君臨。文才にも恵まれ、台本こそ書かなかったが父と同様に俳諧をよく嗜んで「栢莚(はくえん)」と号し、『老のたのしみ』と題する名随筆を後世に遺した。

 二代目には後継ぎの男子がなく、一門の役者から養子をもらって三代目を継がせた上で、後年の舞台では自らの芸名を海老蔵とした。以来、海老蔵は代々の團十郎の後名になったり、前名となっていたりする。


ザコエビ役者と謙遜

 将来を見込まれて後を継いだはずの三代目は残念ながら養父より早世し、ここに名跡の断絶する恐れが大いにあったものの、幸い二代目の生存中に四代目を継いだのは二代目松本幸四郎という中堅俳優だった。この人は二代目の姪で養女の婿に当たり、当時から二代目のご落胤だという説がささやかれていたが、容姿は全く似ておらず、大柄で面長な悪役にふさわしい怖面だったようである。

 また二代目のように出て来ただけで舞台がぱあっと華やぐことはない地味な芸風で、襲名当初の人気は今一だったけれど、後年はシリアスなドラマで優れた演技力を発揮する名優と高く評価された。ことに見かけは悪人でも魂は善良な「実悪」と呼ばれる演技が得意で、今日に上演する「寺子屋」の松王丸や「景清」の演出は彼にまで遡るとされている。

 自ら「修行講」という一種の演技演出研究会を主宰して積極的に後進の指導にも努め、そこから中村仲蔵のような次代を担う名優が誕生した。四代目の実子が五代目になるが、この親子の数奇な人生については先に挙げた拙著『仲蔵狂乱』の中で詳しく触れている。

 五代目は十円切手にもなった有名な写楽の大首絵でご存じの方も多いと思うが、この絵は「市川鰕蔵」とされて「海老蔵」ではないことにお気づきだろうか? これは本人が海老蔵を名乗るのはおこがましいようなザコエビ役者だと謙遜して「鰕」の字を使ったのだといい、俳号も祖父「栢莚」の音に倣いながら自分は人より劣るというつもりで「白猿」と称していた。