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升田が「わが最高傑作の譜」と語る大山との名人戦最終局

 男性棋戦に目を転じると、年度同一カードは前述の2例が最多だが、いずれも新設の叡王戦をのぞき、七大タイトル戦が実現していた時代の話だ。さらに棋戦が少なかった時代はどうだろうか。

 まず昭和の黄金カードとされた大山康晴十五世名人-升田幸三実力制第四代名人戦を見てみよう。1948年3月のいわゆる「高野山の決戦」からはじまり、大山と升田の両者は常に将棋界のトップで争い続けていた。その頂点とも言えるのが1957年度における両者の戦いだろうか。この年の両者は19局(升田の11勝8敗)指しているが、特筆すべきはこれがすべてタイトル戦番勝負の戦いである点だ。

 1957年度にまず行われたタイトル戦は名人戦七番勝負。王将と九段の二冠を合わせ持つ升田が大山に挑戦し、4勝2敗で奪取。当時行われていたタイトルを独占して、棋界史上初の三冠王に輝いた。「たどり来て、いまだ山麓」とは、升田が名人獲得時に発したとされる言葉である。

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升田幸三名人 ©文藝春秋

 その後に行われた九段戦も升田が4勝2敗で防衛し、九段及び三冠を維持。だが年を明けた58年の1~3月に行われた王将戦では、大山が4勝3敗で王将を奪回、升田の全冠独占を終わらせた。57年度のタイトル戦はすべて大山-升田戦だが、タイトル戦全カード同一は、この年が唯一の事例である。棋戦が少ない時代とは言え、いかに両者が突出していたかの証であろう。

 続く58年度は、名人戦を升田が4勝2敗1持将棋で防衛、九段戦を4勝2敗で大山が奪取する。56年度の王将戦から始まる両者の激戦は、6連続タイトル戦同一カードという記録を生み出した。この数字は今でも破られていない。そして升田は、58年度の名人戦最終局を「わが最高傑作の譜」と振り返っている。

中原が「歴史に残る妙手」を指した米長戦

 通算同一カード最多187局の中原誠十六世名人-米長邦雄永世棋聖戦はどうだろうか。両者がもっともぶつかったのは、1979年と80年の2年間。どちらの年も4つのタイトル戦で覇を競った。

 まず79年度は名人戦(4勝2敗で中原防衛)、王位戦(4勝3敗で米長奪取)、十段戦(4勝1敗で中原防衛)、棋王戦(3勝1敗で中原奪取)の4タイトル戦で争った。この年度の中原-米長戦は21局を数える(名人戦の第1、2局は78年度対局)が、同年の名人戦第4局で指された「▲5七銀」という一着は、中原の生涯にわたる妙手と言われている。中原は引退時の記者会見でもっとも印象に残る一手を問われて、「それは名人戦での対米長戦。有名な▲5七銀の一手です。あれは指す前からその手は閃いていて、歴史に残る妙手という気がしていました」と語っている。

 この名人戦で敗れた米長は、対中原戦のタイトル戦が7連敗となった。だが続いて行われた王位戦でついに中原を破ってタイトル獲得。ここから本格的な両者の激突が始まる。

 翌80年度は名人戦(4勝1敗1持将棋で中原防衛)、棋聖戦(3勝1敗で米長奪取)、王位戦(4勝0敗で中原奪取)、棋王戦(3勝1敗で米長奪取)でぶつかった。この年の両者の対戦は19局だが、同年に米長が記録した年度88局(55勝32敗1持将棋)は、当時の年間最多対局数である。