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「童貞力」がその効力を失うとき

 そして性経験と男らしさを結びつけることの危険性には敏感な大人たちが、性交渉の経験がない独身者が増加し続けている昨今の現象には無頓着なのもやや気になる。やっぱりちょっとくらいお尻叩かないとみんな子作りしないんじゃ……と。渡辺由佳里氏が指摘するようなレイプカルチャーは到底擁護できる代物ではないが、目指すべきはレイプと童貞の間にある普通の恋愛やセックスであって、レイプを批判し、童貞への批判は否定するとしたら、議論のバランスを欠くのではないか。

 何より指摘しておきたいのは、『DT』で指摘されるような童貞の強さや面白さは、基本的には未経験だという劣等感や、性を強く渇望することによる奇妙な妄想・行動なのであって、それは童貞がやんわりと否定される空気なしには育まれえないものであるという点だ。人権派がイジりを全て解消し、「童貞は何一つ恥ずかしいことはない」という見解が社会に行き渡り、しっかり浸透した時、みうらじゅんが言うところの「童貞力」はその効力を失う。逆説的だが、童貞礼賛の文化系男子的価値観は、一定度の童貞ディスを前提とし、またやんわりと受け入れることでしか成立し得ない。

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 別に私は童貞だったこともないし童貞力信者ではないしわざわざ童貞とセックスしたいとも思っていないので、『DT』を後生大事に抱いて寝ている文化系男子たちの味方をしたいわけではない。なんなら私は基本的に「ない」ことを自慢する逆バリ言説というのが基本的に嫌いで、「セックスしたことない」「テレビ見たことがない」「携帯持っていない」などとドヤ顔で言われても、ないよりはあった方がいいだろうと、ごく一般的な反応しかする気にならない質だ。こと私が所属していた大学や大学院のゼミなど文化系文化圏で支配的な、童貞という名の権威主義には常々苦々しい気持ちを持っていた。

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童貞イジりツイートを批判するとき、私たちは「岐路」に立っている

 しかし、童貞イジりのツイートを批判する時、実は人類は童貞の人権を守ってかつて絶賛された童貞の魅力を捨てるか、童貞の魅力を保ったまま多少の向かい風を甘んじて受け入れるか、の岐路に立っていることには、もう少し自覚的になった方がいい。日本の童貞文化は少なからず童貞たちの心の強度を下支えしてきたことは確かで、人権に敏感になりすぎることは、その文化を骨抜きにする可能性を孕んでいる。「やらせてくれそう」であるが故かどうかは知らぬが、比較的童貞からの風当たりが柔らかい私は今後も、童貞の愚痴には「とりあえず吉原行ってから来てくれる?」と答えていこうと思う。少なくとも現状この国では、5万円も払えばかなりレベルの高い脱童貞経験ができますからね。