「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」
さてしかし、くだらない、と片付けてもいられないのは、すでに「童貞をディスってはいけない」キャンペーンはそれなりに肥大化し、生真面目な大人たちが真面目な見解を述べる事態にまで発展している。例えば渡辺由佳里氏の「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」(cakes)では、童貞が笑いのネタになるのは「社会一般のイメージとして、『性交渉』と『男らしさ』の間に密接な関係があるからだ」とした上で、性体験の豊富さが男らしさに結びつけられる事態への危機感を示し、「『愛情をもって処女をネタにしています。処女を尊敬しています』というのが男性による女性へのセクハラの言い訳にならないように、『愛情をもって童貞をネタにしています』も女性による男性へのセクハラの言い訳にはならない」と警鐘を鳴らす。
「wezzy」にも「『童貞いじり』によって、『童貞』であることに焦りを覚えた男性が、こうした価値観を内面化することは、誰にとっても望ましいものではない」と似たような趣旨の記事が載っていたり、「しらベぇ」に「『男女がもしも逆の立場だったら』と考えてみると、違う感想が生まれてくるかもしれませんね」という弁護士の見解が紹介されていたり、「これを機に非人道的ないじりについて冷静に真面目に批判する」流れができている。
処女はディスにそぐわない
女と寝たこともないヤツは男じゃない、なんて価値観もどうかとは思うが、童貞問題に限って言えば、男女を逆転させて考えさせる論法はほぼ無意味だ。童貞が「童貞のくせに」的なマイナスイメージを持っているのに対し(いや、女性を汚れとみなして童貞を汚れていない神聖なものと見なす文化ももちろん古くは西洋にも東洋にもあるのだが、ややこしいので現代的なイメージの話に絞る。そう言えば数年前に日本語訳がでたルートヴィヒ2世とワーグナーを描いたカチュール・マンデス「童貞王」は名作なのでおすすめです)、そもそも処女は基本的に男性の好物である。
「処女のくせに」或いは「処女ってダサい」という時、そこにあるのは支配的な処女信仰へのアンチテーゼか、価値が減った非処女の負け惜しみであって、「セックスくらいしなきゃ女じゃない」なんて言われたところで、処女が圧倒的に多くの価値を握りしめているのは明らかだ。オリーブ油と女に関して、バージンはディスにそぐわない。というか日本人男性ほど愚直に処女性への夢を追いかけてきた人たちも珍しく、そうでなければセーラー服のイメクラもかつて私が荒稼ぎしていたブルセラも流行らなかったであろう。前出の童貞たちの心の聖書『DT』が新鮮だったのは、それまでマイナスイメージがこびりついていた「童貞」を素晴らしいものとして捉え直した点であって、これが処女礼賛の本だったとしたら、別に普通のオヤジの趣味丸出しである。