©文藝春秋

 いまから50年前のきょう、1968(昭和43)年1月22日、第58回直木賞(1967年下期)が発表され、受賞作に野坂昭如(当時37歳)の『アメリカひじき』と『火垂るの墓』が、三好徹(当時37歳)の『聖少女』とともに選ばれた(同日に発表された第58回芥川賞は柏原兵三『徳山道助の帰郷』に決定)。芥川・直木両賞では、その前回より発表当夜に都内のホテルで受賞者の会見が行なわれるようになっていたが、野坂は伊豆に取材旅行中で欠席、宿泊先の旅館に来たテレビ局の取材も、宿の人間に「行方不明」とことづけて無視し、翌朝の番組出演の依頼もすべて断ったという(野坂昭如『文壇』『新宿海溝』文藝春秋)。

 野坂が受賞決定時にあえて人前に出るのを避けたのは、「ふだんしゃっ面(つら)さらしてるんだから、こういう時くらい出ないでいよう」との判断からだった(『新宿海溝』)。放送作家やCMソングの作詞家として世に出た野坂は、このころにはタレントとして盛んにテレビにも出演し、マスコミの寵児となっていた。このため、文壇からは訝しがられることも多かった。前回の直木賞で『受胎旅行』が候補となったときには、選考委員の一人から選評で「作家として大成する意気をもって取り組んでいるかどうか疑わしいような悪名声がある」と苦言を呈されている。しかし、野坂はまるでそんな苦言に応えるかのように、この選評が載ったのと同じ『オール讀物』1967年10月号に『火垂るの墓』を発表した。

『火垂るの墓』の原稿 ©文藝春秋

 当時『オール讀物』で野坂を担当していた編集者の鈴木琢二によれば、次の直木賞が正念場という意識を、関係者全員が持っていたという(『新潮45』2016年2月号)。すでに野坂は、前回の落選後、直木賞を意識して『アメリカひじき』を『別册文藝春秋』101号(1967年9月)に発表していたが、周囲からは、もっと「しんみりしっとりした作品」のほうが有利かもしれないという声も上がる(『文壇』)。

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わずか6時間ほどで書き上げた

授賞式で挨拶する野坂 ©文藝春秋

 野坂は考えた末に、神戸大空襲で孤児となり、終戦直後には幼い妹も栄養失調で亡くした体験をモチーフに書こうと思い立つ(これについて彼はすでにその前年、『婦人公論』でエッセイに書いていた)。タイトルは、百科事典で蛍を引くと出てきた古語の「火垂る」に空襲のイメージを重ね合わせてつけると、6時間ほどで一気に作品を書き上げた。その原稿を六本木の喫茶店で受け取った鈴木は、一読して「シビアな作品ですね」と作家に言ったというが、本人にはその記憶はない。ただ、読み進めるうち、終わりがけ、妹の節子がすっかり衰弱してしまった場面で涙が止まらなくなり、「直木賞はこれで決まったという確信を持った」と、野坂の没後に告白している(『新潮45』前掲号)。

 野坂は直木賞受賞により作家として地歩を固めるとともに、その後も、歌手やキックボクシングなどさまざまなことに手を染め、論客としても華々しい活躍を見せた。『火垂るの墓』は1988年、高畑勲監督によりアニメ映画化され、より広範な読者を得ることになる。