稲川会館の内部の様子について、警察当局の捜査幹部は「寺岡は6代目(山口組)のカシラの高山と直接会って謝罪した。面会時間は40分ほどだった」と明かしたうえで、次のように解説した。
「山口組が2015年に分裂する前、寺岡は子分として6代目山口組組長の盃を受けていた。しかし分裂にあたって公然と反旗を翻し、神戸山口組の傘下についていた。そのことをまず謝罪したようだ。それには当然、命の保証をしてもらう意図があっただろう。神戸山口組に対して強硬派の高山が、寺岡の謝罪の申し入れを受けた理由までは分からない。ただ寺岡はすでに神戸山口組から脱退を表明しているし、絶縁の処分も受けているという経緯も踏まえて判断したのだろう」
寺岡は謝罪を終えると、出迎えの時と同じ稲川会最高幹部に伴われて稲川会館を後にし、新横浜駅から新幹線で兵庫県への帰路についた。早朝から6代目山口組幹部、稲川会幹部、寺岡の動向を追尾していた捜査員らも新幹線乗車を確認し、襲撃事件など想定された最悪の事態は起きずに長い1日が終わった。
「6代目山口組との形勢はもはや覆しようがない」
6代目山口組への謝罪を終えた寺岡はその翌日、兵庫県警に自らの引退と侠友会の解散を届け出た。配下の構成員らは6代目山口組へと移籍するとの情報もあったが、「全員がカタギになることを決めた」(前出の警察当局の捜査幹部)という。
首都圏に拠点を構える指定暴力団の古参幹部は、移籍ではなく「カタギになる」という決断についてこう指摘する。
「一人で責任を取って引退するのは理解できるが、自分としては神戸(山口組)側に組織を残すのが筋ではないかと思っていた。しかし侠友会の若い衆が6代目(山口組)側に移ると聞いていたが、解散して若い衆もカタギになるということで納得がいった」
そのうえで、次のように寺岡の心境を推し測った。
「神戸山口組は(中核組織だった)山健組や池田組などが抜けた。最近でも寺岡の侠友会、さらには(5代目時代の若頭が結成した)宅見組も脱退した。旗揚げ時の中心的な組織がすべていなくなり、勢力は小さくなるばかり。6代目山口組との形勢はもはや覆しようがない。そんな場所に自分の若い衆を戻さないという決断だったのではないだろうか」
しかし、侠友会や寺岡に対する警察当局の見方は依然として厳しい。前出の捜査幹部は、「寺岡が兵庫県警に引退と侠友会の解散を届け出たが、当面は認めない。特定抗争指定暴力団である神戸山口組傘下の2次団体として、暴力団対策法の規制の対象とする」と強調する。