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【2016年 1月18日 午前6時】

 大体の中身が決まった。

 番組冒頭の数分間。メンバー全員で説明をするということ。

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 歌唱はなし。

 歌唱がなしになったのは、この状況では歌えないというメンバーがいたからだ。

 新聞に「解散」の文字が出てしまうまでには、この先の未来を考えてのそれぞれの考えがあったのだろう。

 それが一つにまとまることがなかったからこそのこの報道。

 だからこそ、今回は最後に歌うことは出来ないのかと考えた。

 歌がないということは、話をするだけで終わりとなる。

 結果、今回の騒動で世間の人に心配や迷惑をかけたことを謝る放送をすることになった。

 なぜ謝るのか? それを世の中が求めているのか?

 僕も。そこにいたスタッフ全員の中でも疑問があったと思う。

 だとしても、僕らはそんな番組を作らなければならなかった。

【2016年 1月18日 午前9時】

 家に着いたときはもう日が出ていた。寝ようと思っても寝ることが出来なかった。なんだかずっと苦しい。

 布団から出てカーテンを開けると、道路に雪が積もっている。

 朝9時過ぎ。メンバーの一人、「タクヤ」から電話が来ることになっていた。

 仕事に出なければいけない妻は、生後半年の息子を抱きながら、タクシー会社に電話をかけるが捕まらなくてイライラしていた。

 僕がリビングでため息をつきながら電話を待っていると、かかってきた。

 電話に出ると、彼の声だった。

 そこから、今日何を話すべきかを話し合って決めた。

 僕は22歳の時に彼と出会った。僕と同じ年の彼は、その頃から手を抜くことが嫌いで、ずっと全力だった。

 その全力は日本中を魅了していった。

 電話で話しているときに、妻が出かけようとして、息子が泣いた。その声が電話の向こうに届いてしまい、彼は言った。

「ベビーの面倒はちゃんと見ろよ」

 彼らしい言葉。少しだけ僕の中にたまっていた緊張が抜けた。

 電話を切り、言葉をまとめて、ハルタに電話した。

 息子を抱いてあやすと笑顔になる。

 その息子の笑顔がなんだか痛かった。

 そのあと、本来ならば、昼過ぎからほかのメンバーと会って気持ちを聞き言葉を作っていきたかったのだが、妻が仕事から帰ってくるまで家を出れず。僕が家を出られるのは2時半過ぎ。

 そこまではハルタやスタッフ達にメンバーとの打ち合わせを任せた。

【2016年 1月18日 午後3時】

 妻が帰ってきたので、再びテレビ局に向かった。

 放送まで7時間。

 この夜の放送がどんなものになるのか? まだ自分にも想像はついていなかった。

 国民が注目する放送になることは間違いなかった。

 これがいいきっかけになってくれたらいいと、この時点では思っていた。

 会議室に入ると、ADさんは慌ただしく走りながら会議室を出入りしている。

 みんなほぼ寝ずの状態で生放送の準備だ。

 そして、ここから僕がメンバーの思いをテレビの言葉にしていくことになる。

 どんな言葉にしていったらいいのか考えていると、「リーダー」との打ち合わせを終えて戻ってきたハルタが、その気持ちを僕に伝えた。

 今回の騒動を経て、世間を騒がせ心配をかけたことに対して申し訳ないと思っている気持ちを伝える。

 だが、リーダーとしては、言葉は最小限にしたいという思いがあった。

 色々と気持ちを語るよりも、今はまず、解散はなく、生放送でみんなに向かって、最小限の言葉で心配をかけたことに対して謝る。

 いつも彼はグループを俯瞰的に見てきた。アイドル冬の時代と言われ始めた90年代。歌番組も減っていった。その中で、露出するとしたらバラエティー番組しかなかった。勢いのある芸人さんが続々と出てきて人気になり笑いを取っていく中で、アイドルがそこに出て行き勝負していくことはとても厳しかったはずだ。

 アイドルを飛び越えて「こちら側」に来ようとするな、という空気があり、みな、そこに重い扉を作った。だが、リーダーは、そこを力ずくで開けていった。

 彼が開けたその扉を、メンバーは様々な形で通り抜けて、新たなアイドルを作り上げていった。

 自分のことは二の次で、いつもグループとしての見え方を第一に考えていた彼だった。

 常に俯瞰で見ていた。

 だから、この日も、自分たちが最小限で話し、終わらせることが、絶対にベストだと思っていたのだろう。

 リーダーの目には常に先が見えている。

 ハルタから伝えられたリーダーの願い。

 だから僕は書いた。

 今回の騒動で世の中を騒がせたことへの思い。そのことに対して謝る思い。最小限で。

 彼らの言葉や行動は、これまで国民に沢山の夢を与えてきた。

 2011年の東日本大震災の10日後。3月21日。その番組は緊急生放送だった。未曽有の大災害が起きて、急遽生放送に切り替えた。

 原発の事故もあり、日本中に様々な噂がたった。芸能人は大阪に逃げている。東京もやばいんじゃないか。

 そんな中、彼らは生放送を行った。生放送が始まり、最初に「リーダー」が言った。

「我々は東京お台場にいます」

 その言葉で、沢山の人が安心しただろう。

 僕も含めて、スタッフもみんな不安だったはずだ。だけど、彼らが生放送を行うことで自分たちを奮い立たせていた。

 そのあとも、彼らは被災地に何度も向かった。カメラがなくても向かった時もあった。

 2011年7月に放送された長時間番組。被災地で料理を作る企画。「タクヤ」と「ゴロウチャン」は岩手に向かい、「ツヨシ」と「シンゴ」は福島に向かった。

 僕も福島に同行した。二人が体育館に入ると、沢山の福島の人が出迎えてくれた。大きな手作りパネルには手書きで「福島に来てくれてありがとう」と書いてあった。当たり前の言葉が、ここでは重かった。涙を流している人たちも沢山いた。

 生放送が終わり、二人と僕は楽屋に戻った。そこでシンゴはツヨシに言った。「この仕事をしてきて本当によかった」と。ツヨシも強くうなずいた。

 この二つの生放送は、彼らだけでなく、自分やスタッフにとっても大きな自信と誇りになったはずだ。テレビの力で人を笑顔にする。

 希望を与えることも出来るんだ。

 会議室で彼らの言葉を書いているときにそんな生放送を思い出して、また言葉を書いた。

 この日の放送が見た人の笑顔を奪うものになるとは思わずに。

【2016年 1月18日 午後6時】

 テレビを通して沢山の人を笑顔にしてきた彼らに、悲しい言葉を言わせたくなかった。

 そんな言葉は誰も望んでいないのは分かっていたから。

 今まで彼らがこの言葉を言ったら面白いかな、格好いいかな、と考えてきたのに。

 この日に考える言葉はそうではなかった。

 2時間近く考えて、書いた言葉は、ほぼ同じような中身だった。

 迷惑をかけたことに対する謝罪。

 言葉を変えて並べただけだった。

 どんなに考えてもそれが精一杯だった。

 ハルタやノグチにその言葉を見せた。

 本人たちに見せる前に、当然、事務所に見せなければならない。

【2016年 1月18日 午後7時】

 ハルタが原稿チェックを終えた事務所の返事を伝えてきた。

 もっと個人の思いとか言葉はないのだろうかという返事。

 そこから多少言葉を足したが、それが限界だった。

 それをまた返すと、OKが出て、それで行くことになった。

 事務所側からしたら、決して満足いくものではなかったはずだ。もっと本人たちから言葉を引き出して作ることは出来ないのか? と思ったことだろう。彼らと20年間この番組をずっと一緒にやってきたはずの僕に対してガッカリしたに違いない。

 だけど、僕が何を思われてもそれでいいと思った。

【2016年 1月18日 午後7時半】

 言葉が決まり、演出のノグチと一緒に、本人たちの楽屋を回り、伝えていくことになった。

 僕らの前ではいたって明るく振る舞っていたリーダー。

 その明るさが自然でないことはわかった。

 この状態でも、何とかその空気を作ろうとしている責任感。

 一人ずつ楽屋を回り、言葉を書いたメモを置いていく。みな、いつもと変わらぬように振る舞っている。

 なんだかその姿を見て、「もしかしたら自分たちはとんでもないものを放送してしまうのかもしれない」という思いが過る。

 得体のしれない不安が体を占領していき、心拍数を上げていく。

 メンバーはこの数十倍、数百倍の不安なんだろうと思い、自分を落ち着かせる。

【2016年 1月18日 午後8時】

 自分の作業は終わり、スタッフと今後の収録予定などを話してみるが、集中出来ない。

 ただ始まるのを待つしかない。

 時間が経つのがこんなに遅く感じたのはいつ以来だろう。

 知人からLINEが届く。そこには「今日の生放送楽しみにしてるね」という言葉もあった。

 楽しみにしていた人も沢山いたはずだ。

――解散することはない――

――これからも5人で一つになり、楽しい放送をやっていく――

 そういったことを5人の口を通して言ってくれると信じていた人は少なくない。

 面白い放送でもない。格好いい放送でもない。感動する放送でもない。

 ただ、見た人には解散しないことは分かり、最低限の安心を感じてほしいと思った。

 それだけでも伝わればと。

 何度見ても動かなかった時計の針がようやく放送まで1時間を切った時に、ハルタが僕のことを呼んだ。その時、ハルタの顔を見て、僕の鼓動はさらに速まった。

ここまでが物語の前半です。鈴木おさむ氏による「小説『20160118』」の全文は、「文藝春秋」2023年1月号(創刊100周年新年特大号、および「文藝春秋 電子版」)に、20ページにわたり掲載されています。