今年2月11日で、プロ野球の野村克也氏が亡くなってちょうど3年が経った。野村氏は歴代2位となるプロ通算657本の本塁打を放ち、監督としても3度の日本一を経験。そして座右の銘である「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」の言葉通り、多くの「教え子」たちを遺した。
そんな野村氏は同時に「逸話」も多く残した人物である。文春オンラインが報じた稀代の野球人の「伝説」を特別に再公開する(初出 2021年2月13日 年齢、肩書等は当時のまま)。
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私が野村氏に初めて取材を行ったのが、社会人野球・シダックスの監督を務めていた2004年の初夏。楽天の監督を退任した10年以降は野村氏のインタビューを継続的に行い、彼の野球論に関する本を8冊執筆した。その間に一緒に過ごした時間は60時間以上に及ぶ。
改めて、その時過ごした時間の濃密さに驚くが、今振り返ると野村克也という人間は良くも悪くも妻・沙知代さんと一蓮托生だったのだと思う。よく「あれだけの激しい性格の妻となぜ野村さんは離婚しなかったのか」「野球では驚くほどの選球眼を持ち、三冠王をとったほどなのに、妻を視る眼はなかったね」と陰口をたたく者がいたが、それは野村克也という人間を全く理解していない人の妄言だ。「野村克也-野村沙知代=ゼロ」と、生前、野村氏は言っていたがまさにその通りの関係だった。
大切なのは、オレたち夫婦がお互いのことをどう思っているかなんだ
「沙知代にとって、私をつかまえたことは幸運だったと思う。世界中探し回っても、『サッチー』の夫になれるのは私だけだ。それは自信を持って言える」
こんな風によくぼやいたものだ。野村氏との取材中は、野球にまつわる話がほとんどだったが、時折沙知代さんのことを話すことがあった。
「オレはな、彼女に監督を2回もクビにさせられた。1度目は南海のときで、2度目は阪神のときだ」
その一方で、「でもね、オレは彼女には感謝していることのほうが多いんだよ」と口にした。
「世間からはオレたち夫婦はいろいろなことを言われているのはわかっている。でもそんな声は気にしていない。大切なのは、オレたち夫婦がお互いのことをどう思っているかなんだ。オレ自身、彼女がいたからこそ人間的に成長することができた。それだけは間違いない」
野村氏の1周忌に寄せて、世間で誤解されがちだった夫婦の「真実」を描く。天から「そんな照れくさいことやめてくれよ」とぼやきが聞こえてきそうだが、これを書くことがノムさんへの一番の供養になると信じている。(野村氏と沙知代氏の出会いと、南海ホークスの監督を解任になるまでのエピソードはこちら。#1「ヘソから下に人格はない」野村克也の語られざる球界タブー《サッチー不倫・チーム私物化》ついに雪解け)
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1977年12月。南海の監督を解任された野村は、家族3人でそれまで住んでいた大阪府豊中市のマンションを出て、東京に引っ越すことになった。