JR三島駅から車で30分弱。富士山が望める山あいに、クレマチスの丘と名付けられた一角がある。クレマチスが咲き誇る広大なガーデンと、ヴァンジ彫刻庭園美術館、ベルナール・ビュフェ美術館、IZU PHOTO MUSEUM、井上靖文学館といった施設、それにいくつものレストランが点在する。
いったん足を踏み入れたら、一日じゅう美の世界に浸って遊べる桃源郷のような地。どの館の展示も観て回りたいところだけど、今ならIZU PHOTO MUSEUMをメインに据えて訪れたい。写真や映像を扱うアーティストたちによるグループ展「永遠に、そしてふたたび」を開催中なのだ。
車窓から撮った、光に満ちたベルリン夜景
洗練されたシンプルな館の外観を愛でつつ展示室へ入ると、私たちはいきなり光と出逢う。小さい写真作品の画面中央で、この上なく明るい球形が輝いているのだ。白とも黄ともつかぬ色をして、まるで内側から発光しているかのよう。
被写体はずばり太陽で、タイトルも「太陽」という野口里佳作品だ。カメラを太陽にのみ向けたこの上なくシンプルな写真。光そのものや、その色ははたして撮れるだろうかという試みなのだろう。
写真は光がなければ写すことができないし、そもそも人間の活動すべては光なくして成り立たない。光を捉えるのはたしかに写真の、また表現活動の根源的なテーマになり得る。
野口里佳はほかの多くの作品でも、光に関心を集中させて制作をしてきた。歩を進めると、その格好の例を目の当たりにできた。暗がりの部屋の四方に、街の夜景を写した写真がたくさん並んでいる。
ビルや車や行き交う人の姿かたちは判然とせず、画面を満たすのは白、黄、赤、緑とさまざまな光。夜の街でただひたすら光にだけ着目すると、景色はこう見えるものなのかもしれない。
「夜の星へ」と題された作品。そう、たしかに地球外からやって来た生命体が初めて都市の夜景と遭遇したら、こんなふうに光の洪水を浴びる感覚になるんじゃないか。
実際のところ野口は、夜更けのベルリンで2階建てバスに乗り込み、窓越しに撮影をした。しかも撮影はたった1回、短い乗車時間のうちにフィルム1本を使い切り、その写真だけで作品をつくったという。
なんの変哲もない日常の任意の時間と場所が、これほどまで光に満ちて美しいことに驚かされる。ああおそらくは、地球上のあらゆるところで同じことが起こり得る。どこだって視線の注ぎ方次第で、いくらでも美しくなるのだ。野口作品がそう教えてくれる。
老女の奏でるピアノが、記憶を手繰り寄せる
会場を先へ進むと、映像作品と対面する。そこではふたつの映像が、同時に映されている。一方には、部屋でショパンのワルツを弾く老いた女性の姿。演奏の音も聴こえてくる。もう一方の映像には個人の住居の、部屋や庭の様子が映し出される。ふたつの映像の場所の雰囲気に統一感があるので、おそらくはピアノを弾く女性の居住空間なのだろう。
しばし演奏が続いたかと思えば、映像は異なる老女と場所に切り替わる。ショパンのワルツを弾くのは変わらない。これが4人分、繰り返される。横溝静《Foever (and again)》だ。
音律で耳を満たしながら観ていると、彼女たちの人生への勝手な想像がとめどなく浮かんで止まらなくなる。さらには過ぎていく時間の残酷さと豊かさ、時間が決して後戻りしないこと、でもそれは永遠に続くことの不思議さなんかがいちどきに襲ってきて、これほど静かな映像作品だというのに観ているこちらの頭はやたら忙しい。
展示はこのあとも、テリ・ワイフェンバックが静岡に滞在して制作した映像+写真の作品《柿田川湧水》、不思議なほど生活の実感が伴った花の写真などが並ぶ長島有里枝「SWISS」、自身の家族の姿を長年撮り続けた川内倫子「Cui Cui」と続く。
自分にとって大切なものを、慈しみながらそっと掬い上げるように写し取った作品ばかり。写真とはそうした繊細な手つきがよく似合う、極めて私的な表現手段なのだろう。
緑に囲まれ静かに佇むこの小さい美術館に、一つひとつの作品がよくよく溶け込んでいるのだった。