筆致や色彩の荒々しさにくわえて、癇癪を起こし自分の耳を切り取ってしまったエピソードなどが相まって、ゴッホといえば破滅型アーティストの代表と思われがち。けれど実際のところ、勢いと激情だけで美術史に名を残す画業を残せるはずもない。理性に裏打ちされた探究心と勤勉さがアーティストの大成には必須であって、ゴッホもそうした面は大いに兼ね備えていた。
流通しているイメージとは異なる「知的なゴッホ」を感じ取れる展覧会が開催中だ。東京都美術館(1月20日からは京都国立近代美術館へ巡回)での「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」。
浮世絵に倣って空間を歪める
ゴッホは一時期、日本美術に心酔する。故郷のオランダを離れパリへ出た1886年以降、90年に没するまでのことだ。盛んに浮世絵を模写したり、日本風のモチーフを画面に取り入れて、理想郷と思い描いた日本の美を自身の作品に組み込んだ。
今展の出品作は、日本美術との関連性がよく見て取れるゴッホ作品を集めてある。会場でそれらを順に観ていくと気づく。ゴッホはなんと勉強熱心だったことか。
たとえば《花魁(溪斎英泉による)》。江戸の浮世絵師、溪斎英泉の版画作品を油彩画で模写している。花魁の身体ラインなど特徴をよくつかんでいるのは、よくよく絵を観察した結果だろう。
ただし、色はオリジナルと異なる。溪斎英泉作品の着物はモノトーンが基調なのに対して、ゴッホは赤と緑を大胆に配した。人物の背景も、ゴッホの手にかかると鮮やかな黄色になる。ここでゴッホは、色の組み合わせの効果をあれこれ試しているのが窺える。
さらに花魁の周囲には、脈絡なく蓮池、カエル、竹林がこまごまと描き足されている。当時出回っていた日本文化の紹介本や浮世絵から、日本らしいモチーフを拝借したものだ。隙あらば日本についての研究を深めてやろうとの意欲が垣間見える。
今展の目玉とされる《寝室》も日本流に仕上がっているのだけれど、こちらは日本の事物を描いているわけではないのでちょっとわかりづらい。
爽やかな色づかいで目を惹くものの、よく見れば《寝室》はかなり奇妙な絵だ。室内にどんと置かれたベッドは、一見ずんぐりしている。でも右手の壁面や二つの椅子との位置関係を考えれば、かなりの長さがないとおかしい。
左右のドアの立て付けも、いったいどうなっているのやら。開いているのか閉まっているのか判然としない。床だって平らじゃなく撓んで見えてしまう。全体的に空間が歪みまくっている。
この奇妙な表現も、ゴッホが日本美術から学んだことと関係する。空間が歪んで見えるのは、絵画内に奥行きと秩序をもたらす遠近法が正しく使われていないからなのだけど、そもそも遠近法を忠実に守って描いていたのは西洋絵画だけ。日本の絵画のほとんどは遠近法など我関せずで、注目したいモノや人のことは大きく描き、どうでもいい脇役モチーフは小さく描いたりしていた。
日本美術に倣ったゴッホは、遠近法の遵守などやめてしまい、椅子はそれぞれ好きな大きさで描き、黄色の面がたっぷり欲しければベッドの長さなど気にせず枠木を大きくした。画面が歪んだってかまわない。強調したいものや表現したいことがはっきりあるなら、それを目立たせるように描けばいいと考えたのだ。