東京大学へ進学
球技の他に柄谷少年が得意だったのは数学だった。
「全国模試のようなテストで、1位になったこともありました」と言いつつも、「でも、数学者になれるほどの天才でないことは、自分でも分かっていた。学問として数学をやるなら、そのくらいの年齢で大発見でもしていない限り無理だと思っていましたから」
「なんで東大を受けないんだ」と高校の先生に言われた柄谷氏は、東京大学文科一類(法学・経済学)へ進む。受験直前まで理系志望だったが、将来の選択肢が減ると考えたのだ。文学部につながる文科二類ではなかったのも同じ理由だった。
進学後ほどなくして学生運動の中心地だった駒場寮に住んだ柄谷氏。周囲から東大駒場を代表すると見られており、その部屋には、後年、碩学として知られることになる学生たちが出入りした。
マルクス研究者として知られる廣松渉、社会経済学者で保守派の論客としてテレビでも活躍した西部邁、日本近代史を専門とした歴史家の坂野潤治、ヘーゲル研究から始まり後に環境問題を論じた加藤尚武といった錚々たる面々である。
「今から思うと、大学の寮に、よくあんな人たちが集まってきたなと、不思議ですよ。政治運動のためというより、楽しいから、集まっていたのではないでしょうか。彼ら自身も風変わりでしたし、私にとっても、彼らといる空間は、とても居心地がよかった」
柄谷氏が語る「交換様式論」
大学では経済学部へ進んだ柄谷氏だが、文学批評へと転じ、1969年に群像新人文学賞でデビュー。そこから活動の幅を広げた柄谷氏は、社会システムの歴史を「交換」の形式から分析する「交換様式論」に到達する。「哲学のノーベル賞」受賞理由として挙げられたのも、その功績だ。
難解に思われそうだが、柄谷氏は「この理論は、別に難しいことでもないんですよ」と言い、平易な言葉で説明してくれた。
3月10日発売の「文藝春秋」2023年4月号と、「文藝春秋 電子版」(3月9日公開)では、日本の哲学・思想の頂点にある柄谷理論についてもご本人がわかりやすく解説している。
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