著者の平松洋子さんが、おいしさの謎を求めて日本全国、炎天下も大雪のなかもその足で歩き、何日もかけて取材した、食探求記である。
著者は、自身の感情や思い入れなどをいっさい排し、ただひたすらに作り手に寄り添い、彼らの食への思いを引き出し、その姿勢をたんたんと綴っている。過剰さはいっさいないのに、なぜだろう、私は読んでいて幾度も落涙し、いったい何に落涙しているのかとその都度驚いた。何にこんなに胸を熱くさせられるのか。作り手の、すさまじいまでの実直さか。扱う食材に対する、信仰のような真摯さか。著者が捉えた、真剣勝負の一瞬か。生きることの丁々発止か。それを読み手と共有しようとする、静かな熱意か。きっとそのぜんぶなのだろう。
二冊合わせて三十の食が紹介されている。一編一編が、壮大な映画のようだ。そのくらいドラマに満ちている。作り手たちはみんなまじめで、正直だ。おもしろいことに、どの作り手も同じことを言う。だから、食にかんすることだけではなくて、ひとつの仕事を極めようと思ったら、何をすればいいのかがわかってくる。でも、それをすることがどれほど難しいかも、同時にわかってしまう。
ここに紹介される人たちは、自分たちのやっていることをすさまじいとも難しいとも思っていないはずだ。それがふつうの暮らしであり、自分にとってふつうの仕事だと思っているだろう。そして私たちも、深く考えることなく、ひとつのお菓子を、ひと切れの豚肉を、一枚のあぶらげを、ごくふつうに食べ、ごくふつうに「おいしい」と言う。そのことに私はあらためて驚く。ふつうって、こんなにものすごいことの先にあるのか。
やはり多くの作り手が口にする言葉がある。「むずかしい」と「楽しい」である。何十年やっても、毎日毎日向き合っても、それでも今なおむずかしく、楽しい。才能とか、天職という言葉を思う。むずかしさと楽しさを同時に感じられることこそ、才能なのだと気づかされる。そういう仕事に出合えることは、人間にとって幸福なのだということも。
大げさな言葉も表現も書かれていない。けれど読み手に、食べることの大いなる幸福と、おそろしいほどの覚悟を教え諭す書である。そして食を超えて、生きることそのものを描いた書だとも私は思う。食べる、という意味でも、暮らす、という意味でも、続いてきたものを守り、未来へとさらにつなげていく、という意味でも、生きていくとはどういうことなのか。
それにしても、この著者の、味の描写に毎回うなった。的確で鋭くて、あくまでもさりげない。すごい味を紹介する、いろんな意味で本当にすごい本。
【文藝春秋 目次】<第158回芥川賞発表 受賞作全文掲載>石井遊佳 若竹千佐子/<総力特集>日本の教育を建て直せ/南北統一五輪は欺瞞だ
2018年3月号
2018年2月10日 発売
特別定価980円(税込)