東京ドームのマウンドに立つ船迫大雅は、とてもまぶしく見えました。三者連続三振という最高のプロデビューを飾った時、僕は昨秋に船迫から送られてきたメッセージを思い出していました。
「来年はよろしく!」
船迫は高校(聖光学院)のチームメートでした。当時から仲がよく、毎年のようにドラフト候補にあがる船迫が、なぜ指名されないのか不思議でなりませんでした。2022年10月20日、船迫が巨人にドラフト指名されて、9年ぶりに同じユニホームを着られるのが楽しみだったのに……。その5日後、僕は巨人から戦力外通告を受けました。
他の選手が戦力外になっていくなか、僕の名前はギリギリまで呼ばれなかったので「大丈夫かな」と安心しかけていました。その時、あらためてプロは厳しい世界だと痛感しました。
憧れのチームで緊張しすぎて……
よく「変わった名前だね」と言われます。
苗字の「八百板(やおいた)」だけでなく、名前の「卓丸(たくまる)」も珍しいので、印象に残っている方もいるかもしれません。
僕は2015年から楽天で5年間、2020年から巨人で3年間プレーした元プロ野球選手です。
この名前は巨人ファンの父・利勝がつけました。往年の大エース・江川卓さんのお名前と、野球ボールの形が丸いことから「卓丸」と名づけたと聞きました。
なお、1学年上の兄の名前は「飛馬」と書いて「ひゅうま」と言います。そうです、『巨人の星』の星飛雄馬が由来です。僕が生まれた時は「弟は満(星飛雄馬のライバル・花形満から)にしようか?」という案も出たそうですが、母の反対にあって卓丸に落ち着いたようです。
こんな家庭で生まれ育ったので、僕は幼少期から巨人ファンでした。東京ドームのライトスタンドで見た、高橋由伸さんのホームランに「格好いいな」と憧れました。
でも、僕は福島の名門・聖光学院で3年春にやっとレギュラーをつかむような劣等生でした。反骨心だけで這い上がり、育成ドラフトとはいえ楽天に入団。3年目終了後には支配下に昇格しました。
2019年秋、楽天を戦力外になった僕に、巨人の編成担当の方から連絡がありました。
「育成契約ですが、巨人に来ませんか?」
憧れの球団からのありがたいお誘い。それなのに、僕は即答できませんでした。楽天でくすぶっていた僕が、巨人のようなスター軍団でやっていけるのか自信がありませんでした。
僕にはプロ野球選手として飛び抜けた武器がありませんでした。同学年の辰己涼介には化け物のような強肩があり、岡本和真には誰もがうらやむ長打力がありました。僕はバットコントロールを評価していただくこともありましたが、自分のなかでは「プロとして中の下」と感じていました。
それでも、家族と相談したうえで巨人にお世話になることを決めました。最後は「ジャイアンツのユニホームに袖を通したい」という憧れが勝りました。
移籍1年目の春季キャンプが忘れられません。僕は1軍キャンプに連れて行ってもらったのですが、周りを見渡せば有名選手ばかり。相当なストレスがかかったのか、僕は下痢になってしまい昼食も取らずにトイレにこもっていました。
当然、体に力が入らず、すぐにバテてしまいます。元木大介コーチからは「オフに練習やってきてないだろう?」とイジられました。すぐにファームに落とされ、一時は3軍まで落ちました。
「このままじゃ1年でクビだ」と一念発起した僕は、思い切って打撃フォームをイチから作り直すことに決めました。僕には体が早く開くクセがあって、その弱点を克服しない限り1軍では通用しないと考えたのです。
阿部慎之助2軍監督(現ヘッド兼バッテリーコーチ)や村田修一コーチ(現ロッテ)が親身になって、技術指導をしてくれました。とくに阿部さんから「結果はいいから、練習でやってきたことを出せ」とファームの試合に送り出してもらえたのはありがたかったです。
「それなら、練習でやってきたことをみんながわかるように表現しよう」
そう割り切って打席に入ると、自然と結果が出るようになりました。打撃フォームも徐々に馴染み、1年目はイースタン・リーグで打率.313(リーグ5位)、8本塁打と結果を残すことができました。
翌2021年には支配下登録を勝ち取り、背番号51が与えられました。それでも1軍からお呼びがかかる機会は限られ、シーズン終盤にようやくチャンスをもらいました。
9月15日のDeNA戦。代打で起用されたこの打席で結果を残せなければ、クビだろうと思いました。誇張ではなく、「打たなきゃ死ぬ」くらいの覚悟でした。スライダーが外角から甘めに入ってきて、僕は必死につかみとるようにバットを振りました。この打席でタイムリーヒットを打てたことで、首の皮一枚つながりました。あれほど追い込まれた打席は、野球人生で初めてでした。