「新チームでは手薄だった捕手を補強しないといけなかった。そこで拓也に『捕手をやってみないか』と聞いたら『喜んでやります!』と即答したので、やらせてみたんです。プロテクターを着けた姿や所作を見て、『はまった』と確信しました。当時から、肩も強く、何より捕球してから投げるまでのフットワークがすごく良かった。教えたわけでもないのに出来ていたので驚きましたよ」
強肩で盗塁を制する“甲斐キャノン”の芽が、既に育っていた。
「盗塁はほとんどアウトにする。アウトになるって分かっているので、どのチームも走らなくなるんです。大分県で一番の捕手でした」(同前)
福岡ソフトバンクホークスでスカウトを務める福山龍太郎氏も、当時の甲斐の能力を認めた1人だ。
「甲斐が高2の時に練習を見に行って、ノックを受けてボールを投げる動きを何気なく見ていたんですけど、ありえないくらい速くて(笑)。試合を見ていても、ボールに対する入り方が非常に上手く、捕ってからの回転が高校生レベルを超えて速かった。一塁、三塁への送球も素晴らしかったですし、視野もかなり広く、隙があればすぐに投げにいっていましたね。補殺や盗塁阻止率以外の守備貢献度も高いなと感じました」
捕手として順調に成長していった甲斐だが、2年の夏の大分大会は準々決勝で完封負け。さらに3年の夏は再びまさかの初戦敗退。ドラフト候補になる前に17歳の夏は終わった。その3日後に行われた進路相談での様子を宮地氏が明かす。
「『先生、俺はこれからどうしたらいいんか』と涙声で問いかける拓也を見て、高校野球に懸けていた思いを感じて、何とかしてやりたいと思いました。ですが、大学や社会人からは、なかなか声がかからなかった」
高校監督が甲斐に告げた「人生を変えたいなら、死ぬ気で挑戦しろ」
身長170センチの小柄な捕手への評価は高いとは言えなかった。進路が定まらない中、宮地氏は前出の福山氏に連絡する。ここで、甲斐の野球人生が大きく動いた。