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「最期に過ごすならやっぱり日本かな…」坂本龍一がこぼしていた“日本愛” 移住先の候補地が「生まれ育った東京ではない場所」だった理由とは

「最期に過ごすならやっぱり日本かな…」坂本龍一がこぼしていた“日本愛” 移住先の候補地が「生まれ育った東京ではない場所」だった理由とは

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「坂本さんは2011年の東大日本大震災の前から、脱原発の活動を続けていました。それで、『脱原発を訴える身として放射線治療を受けていいものか』と手術を受けることに抵抗を持っていたんです。周囲の私たちは治療を受けて、少しでも早く良くなって欲しいと思っていたので『病気を治して世界に音楽を届けてください』と励ましたら、彼は納得した様子で、放射線治療を受けて一度は治ったと思ったのですが……」

 2020年6月、坂本さんは今度は直腸がんの診断を受けた。以前と同じニューヨークの病院で療養していたが一向に良くならなかったため、帰国した際に日本の病院で検査を受けると、肝臓や両肺などにもがんが転移したステージ4と診断された。

事務所サイトより

「公表された内容にもあるように《治療しなければ余命半年》と告げられ、1年で6回の手術を受けて当時の坂本さんは心身ともに疲れ果てていました。転移が分かった時には涙をこぼしていました。アメリカの医療について、“専門特化”は素晴らしいが他に悪いところがないか検査をしないことには不満を抱いていました」(前出・Aさん)

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「約束は絶対に守る人だったのに……」

 そんな闘病生活の中でも、音楽への情熱は衰えていなかった。2022年12月に世界に向けて配信されたソロコンサートの映像は、体力面を考慮して1日に数曲ずつ演奏したものを編集して作られたものだった。坂本さんも「これが最後になるかもしれない」とコメントしていたが、これが公の場所に出た最後になってしまった。

2022年12月に公開された「Playing the Piano 2022」が最後の表舞台になってしまった

 日本における坂本さんのマネジメント会社「キャブ」は、訃報を受け『2020年6月に見つかった癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした』(一部抜粋)と報告。Aさんも「言葉通り、命の限り音楽に情熱を注いだ人だった」と言い、坂本さんとの“約束”を振り返る。

「22年の8月に連絡を取ったとき『コンサートのための演奏をしなければならないけど、体調が優れなく前日まで入院していた』と言っていて、あのライブはかなり衰弱した状態で臨んでいたと思います。まだまだコロナ禍でもあるので、“会おう”というのは控えていたのですが、彼は『今年の12月までには必ずお互い元気な姿で会おう』と約束してくれました」

「約束は絶対に守る人だったのに……」とAさんは最後に残し、涙を流した。

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