昨シーズンをもってプロ野球の世界を後にした彼を覚えているだろうか。山下幸輝、通称むしくんである。ムードメーカーで明るくて、爽やかで、愛想もよくて……言い出したらきりがないが、だれが見ても彼はいいオーラで溢れている。しかし、それはむしくんが文字通り命懸けで作り上げた『山下幸輝』なのだ。今回は彼が『山下幸輝』をいかにして作り上げたか、『山下幸輝』は何を思い、何を残したのか、今はどうなっているのか、今まで誰にも明かされていなかった彼の物語をお届けしたいと思う。
「今年でクビだ」が口癖だった『山下幸輝』が生まれ変わった瞬間
大前提として、むしくんは決して強い人間ではない。実際、2022年8月2日を最後に、彼はグラウンドから姿を消している。簡単に言うと、グラウンドに来られるような状態ではなくなってしまったのだ。
ただ、彼はグラウンドから逃げ出したわけではない。むしろ逆で、心身の限界を何度も超えて、その度に悩んで、戦い続けた結末なのだ。強がるポーズは、いつまでも続けられない。それをわかっていながら、彼は抗ったのだ。生まれ変わった『山下幸輝』として、限界まで戦ったのだ。そしてこの『山下幸輝』は、彼一人で作り上げたものではない。プロ野球選手として終りかけていた彼に最後の最後まで戦うきっかけをくれたのは、2020年シーズンのファームコーチであった万永貴司氏であった。
ふとした瞬間に人は弱音を吐くものであって、そんなときのむしくんの口癖は「今年でクビだ」であった。もちろん、暗くどんよりした雰囲気ではなく、あっけらかんとして言って見せてはいるものの、どこか哀愁の漂うセリフであった。
元同僚として、客観的にむしくんを評するならば、確かに毎年ギリギリのポジションで戦っていたように思う。ファームでの生活が長くなってきた彼は、一軍で活躍していた日々と比べて、物足りなく感じることもあっただろう。そうなると、むしくんといえどやはり人間で、もういいや、これぐらいでいっか、と思うことが何度もあったという。
「あの時はもぬけの殻でしたね」
本人もそう語る通り、いわゆる腐っていた状態である。そんな彼は、ある期間遠征のメンバーから外れてしまう。いよいよ彼の中で終わりを覚悟したであろう。結果も出ない、かといってなにがなんでも、というような気概もない。遠征のメンバーから外れるのはある意味当然の結果であった。
しかし、それを許さなかったのが万永コーチである。「お前、なんで遠征メンバーから外れたかわかるか?」。寄り添うような、かといって優しいだけではない万永コーチの独特のオーラに、むしくんはハッとさせられたという。「わかります」。そう答えたむしくんは、いろいろなことに気が付いたという。生まれ変わるなら、ここしかない。覚悟のひとつとして、彼は髪を金色に染め上げた。
「金髪は目立つし、いいイメージばかりではないこともある。いわゆる、好き勝手している状態で、それを選んだのは僕自身です。好き勝手するということは、絶対に義務を果たさないといけない。しっかりしないといけない。僕なりの覚悟の現れでした」
この瞬間、『山下幸輝』は生まれ変わったのだ。