ターニングポイントとなった新型コロナウイルスへの感染
それ以降、彼は持てる全てを出し続けていた。繰り返しになるが、彼は決して強い人間ではない。不安に襲われることもたくさんあったという。それでも、弱音は通勤中の車の中で出し切り、車を降りた瞬間からは最高の自分を演出し続けた。金髪の姿を鏡で見て、自分を鼓舞し続けた。何度も何度も弱い自分を隠し続けた。そんなギリギリの戦いを続ける彼に、とどめを刺すかのような出来事が起こってしまう。新型コロナウイルスへの感染である。本人も、この出来事はターニングポイントだったと話してくれた。ここですべての歯車が狂ってしまう。
昨年4月に感染し、その後無事回復するものの、心身の違和感は拭えなかった。グラウンドに復帰してからも体の重さは取れなかった。後遺症なのか、どうしたら完全に回復するのか、様々な疑念が生じた。そして体の不調は心にも影響を及ぼしてしまう。徐々に追い詰められた彼は「これ以上は続けられない」と、6月上旬に球団に申し出た。そうしなければいけないほど、状態は悪化していた。そして2022年8月2日、彼は完全にグラウンドを後にした。心療内科にも通った。輝きを放つ選手がいる一方で、日常の生活もままならない選手がいる。野球とは、プロ野球の世界とは、強く生きるとは、美しくて残酷だ、そう思わざるを得なかった。
再三繰り返すが、彼は決して強い人間ではない。精一杯強がるポーズを続けたのだ。そして、強くないからこそ、彼は人の痛みを理解できる。人に寄り添える、本当にやさしい人間なのだ。その優しさは、荒み切った彼自身を救い出した。
限界の遥か向こう側で佇んでいた彼を、当たり前のように沢山の人が勇気づけた。マネージャーの桑原義行氏、メンタルトレーナーの方は頻繁に家を訪れ、むしくんを気遣ってくれた。メンタルトレーナーの方のうち、1人の方は家を訪れてむしくんを励ます一方で、もう1人の方はあえて突き放すような接し方で、むしくんの自立を促した。この2人のメンタルトレーナーの接し方のバランスにかなり助けられたとも話してくれた。後述するが、この出来事は、むしくんの今に大きく繋がった。
むしくんを気にかける人がいる一方で、むしくんの事情などお構いなしでむしくんに元気玉を投げ続けた人もいる。むしくんの子どもたちだ。無邪気な彼らと触れ合うと、不思議と元気が出てきたという。今の彼の口癖は「子どもかわいい」である。やり方は違えど、みんなが彼に元気を送りたいと願い、それが形になったのだ。
「たくさんの人にお世話になったが、一番助けられたのは友人の存在です」とむしくんは話す。特に、ベイスターズの友人の存在は大きかった。彼の本当のところを知る友人からの言葉は私が語るのは失礼なくらい彼を勇気づけただろう。私もその1人で、と言ってしまうとおこがましいが、彼に救われた1人として、なんとか彼の力になりたかった。「てらっち、元気?」と連絡をくれた彼に、彼の状態を何も知らないフリをして、連絡を返した。彼の現状をその口からしっかり聞いて、私は私なりの思いを届けた。できるだけ真面目に言わなくちゃ、そんな風に思っていたが、気がついたらバイクとTikTokの話で盛り上がっていたので、それはそれでよかったのかなと今は思う。なんにせよ、むしくんが笑っていたらそれでいいのだ。
戦力外通告を受ける頃には、いくらかマシな状態になっていた彼は、戦力外を正式に告げられ、一気に心が軽くなったという。今はセカンドキャリアとして、『株式会社NineEdge』で、動作解析など野球に関わる仕事をしている。SNSでも精力的に発信に取り組む姿を見ると、こちらも頑張らないと、と思わせてくれる。それと同時に、先述のメンタルトレーナーの方々との経験が彼の針路の舵を切った。現在の仕事と並行して、スポーツメンタルコーチの資格を取るための勉強を進めている。色々な苦しみを経験したからこそ、心から選手に寄り添えるメンタルコーチになってくれることだろう。
むしくんとは今でもほぼ毎日連絡を取り合っているのだが、正直に言うと、かつてないほどイキイキしている。ご飯に行っても仕事のプレゼンを聞かされるくらい、第二の人生を順調に進めているようだ。インタビューの中で、元気になってよかったねと伝えたら、「いろんな人に助けられたおかげです、ありがたいですね」と笑う。むしくん、知ってる? それって全部むしくんがみんなにあげてたものだよ。
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