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「変身ヒーローもの」を極限まで突き詰めると「デビルマン」に

「漫画版『デビルマン』がやっているのは『逸脱』やない。むしろ、『変身ヒーローもの』のフォーマットを極限まで突き詰めると『デビルマン』になってしまう、と言った方が正しい。『変身ヒーローもの』って、実は恐ろしいジャンルなんや。平成版仮面ライダーのプロデュースを手がけてきた白倉伸一郎氏は、仮面ライダーの本質について『同族同士の争い』『親殺し』『自己否定』という3つの要素を挙げているけど、これらの要素は『デビルマン』にも、ぴったりそのまま当てはまる。

 デビルマンは『人の心を持つデーモン(悪魔)』であり、同族同士が戦うのは戦争の隠喩や。そして、デビルマンがデーモンと戦い続けることは、自らの創造主『サタン』と戦うことにつながり、最後に倒すべきデーモンとは、他ならぬ自分自身になる。これら3つの要素を突き詰めれば『自分とは何か』という重い問いかけにつながる。だからこそ『デビルマン』という作品は、理屈を超えて人びとの心に響くんやないか――。実はこれ、白倉氏の仮面ライダー論を『デビルマン論』として、そのまま頂いたんやけど、デビルマンの本質を見事についていると思うで」

「うーん。それでも『仮面ライダー』の延長線上にあるという主張には納得しきれませんね。絵柄も物語も、あまりに雰囲気が違うじゃないですか」

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石ノ森章太郎作の漫画版仮面ライダーより、ライダー初登場のシーン(「仮面ライダー1971〈カラー完全版〉BOX」)

「じゃあ、ちょっと思考実験をしてみようか。仮面ライダーの外観はかっこええけど、戦う相手の怪人たちは、醜くておぞましい形をしている。そやけど、『ライダーも怪人もショッカーの造った改造人間』という元々の設定から考えると、これはおかしいんや。仮面ライダーは元々、バッタの能力を組み込んだ改造人間『バッタ男』であり、『クモ男』や『ハチ女』のような怪人と同様の、おぞましい外観をしているのが当然やろ。石ノ森先生自身はそういう怪奇路線で行きたかったんやけど、テレビ番組として成立させるために妥協して、ヒーローらしいデザインにしたわけ。

 デビルマンも元々はテレビ番組向けの企画やから、テレビのデビルマンはヒーローっぽい外観をしている。そやけど、永井先生は漫画で描くに当たって『デビルマンもデーモンの一族』という設定をデザイン面でも徹底させた。だから漫画のデビルマンは牙も生えとるし、下半身は獣毛で覆われているし、尻尾まで生えている、という悪魔然とした外観になったわけや」

「なるほど。仮面ライダーの設定の方向性を妥協なく突き詰めたのが、漫画版『デビルマン』というわけですね」

「石ノ森先生の描いた漫画版の仮面ライダーは1971年末まで週刊少年マガジンに連載されていて、その結末も『ショッカーの日本支配計画の原型は、日本政府自身が作ったものだった』というショッキングなものだった。『人間の敵』と戦っていたはずが、実は人間そのものとの戦いになってしまった、という展開は『デビルマン』の原型とも言えるやろう。その半年後に、同じ週刊少年マガジンで『デビルマン』が始まる。さらに言えば、永井先生は石ノ森先生のアシスタント出身や。これらを『偶然』の一言で片付けられるやろうか」

石ノ森章太郎氏 ©文藝春秋

「私たちが見慣れているテレビの変身ヒーローものは、いわば『オブラートで包んだような寸止め状態』であって、そのリミッターを解除してしまうと、漫画版『デビルマン』のような、深くておぞましい世界が広がっている、ということですか」

「『2010年代アニメの最高傑作』と評される『魔法少女まどか☆マギカ』も、女の子版変身ヒーローである『魔法少女もの』の設定を極限まで突き詰めたら、ものすごくダークでヤバイ話になってしまった、ということやろう。その意味では『デビルマン』の最も成功したリメークとは、実は『まどか☆マギカ』かもしれんな」

「確かに、『まどか☆マギカ』はオタクの友達が激賞していましたね」