帰路に北新地とミナミ
有働 社会ではよく、最近の若い子はゆったりしているとか言われますけど、監督はご自身の現役時代と比べて違いを感じますか。
岡田 一つにはめちゃくちゃ真面目ですね。コロナ禍があって外出しにくかったのもあるでしょうけど、それを抜きにしても野球に取り組む姿勢は僕らの時代より真面目です。逆に真面目すぎる面があるから、ちょっと遊びがほしいなぁとも言っているんですけどね。
有働 ほぉう、監督は現役時代、結構遊んでおられましたか。
岡田 まあ遊んだ方じゃないですか。試合が終わって皆で食事に行ったり飲みに行ったりするのは結構ありましたよ。
有働 甲子園球場と北新地とで同じくらい活躍されていたとか。
岡田 僕は寮を出て(大阪市中心部の)実家で暮らしていた間、家に帰るまでに北新地とミナミという2つの繁華街を通らないといけなかったんですよ。ふふふ。
有働 ハハハ。
岡田 最初の頃は親父もおったからね。試合が終わると球場からいつも一緒に帰って、そのまま飲みに行っていましたね。帰る途中に繁華街があって、親父も好きだったからしょうがない。
有働 しょうがないって、普通にまっすぐ帰ってもいいとは思うんですけど(笑)。
岡田 まっすぐ帰っても僕は当時独身だしね。
親父の言う通り野球をした
有働 お父様は工場を経営していらっしゃって、監督が小さい頃から「二代目ミスター・タイガース」こと村山実さんなどと交流があったそうですね。二軍の選手と一緒に野球をするような環境で育ったとか。
岡田 そうです、そうです。親父がタイガースの選手の面倒を結構見ていたので。だから僕とタイガースとの付き合いは長いんですよ。もう60年以上じゃないですか。
有働 今回のWBCの展開くらいマンガみたいな話ですよね。幼少の頃からずっと阪神漬けで今日に至るわけですものね。
岡田 ホントそうです。僕が小さい頃は、大阪でも阪神より巨人の帽子の方がよく売れた時代ですよ。でもクラスで僕だけは物心ついた頃から阪神の帽子をかぶっていました。藤本勝巳さん(阪神選手)と歌手の島倉千代子さんが結婚した時は、藤本さんの家にあったトスバッティングのケージをもらって自宅屋上に設置して。それが小学生の時かな。
有働 えー! なんちゅう環境!
岡田 僕は小学校が越境入学だったので近所に友達がいなかったんですよ。だから1人で壁に軟式ボールをぶつけて遊んでいたら、親父が会社の野球チームを作ってくれたんです。オレ用に。
有働 「オレ用」!!
岡田 練習試合というか会社の得意先の野球チームと戦う時には、小学生の僕がピッチャーをやることもあったんですよ。小学生が投げるから楽勝やと、向こうはビール1ダースを賭けてきて(笑)。でもピッチャーが僕でも、内野4人は阪神の二軍の選手が守っていますからね。
有働 いやぁ~、贅沢。
岡田 そうなんですよね。それは負けないですよね。打たれても。そういう環境で育ったんですよ。
有働 環境が素晴らしかったとはいえ、野球選手として頭角を現していったのがまたマンガのようで。お父様には自慢の息子だったでしょうし、これ以上ない親孝行ですよね。
岡田 甲子園はネット裏の年間予約席を買って、全試合来ていましたね。体が悪くなるまで。
有働 ああ、愛を感じます。
岡田 それは大学の時もそうで、早稲田大学に入った時から東京まで全試合来ていましたよ。試合に出るようになったら応援に行くから、とは入学前から言われていたんです。で、1年春からベンチに入ったからね。だから引退までの3年半、全部見に来てくれましたよ。
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岡田彰布さんと有働由美子さんの対談「10年前のWBC監督を断った」全文は、月刊「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
「10年前のWBC監督を断った」